「電線のある風景」のかけがえのなさ。
電線があるのは、先進国ではない。
そんな言葉は、特定の誰かが言った印象はないが、それでも、ずっと聞かされてきた。同時に、電柱や電線は、明治以降、発展をなるべく早くするために行われた「仮設」的なものであり、電線は地中化すべきということも、ずっと言われている。
どこかで、そんなものかもしれないという気持ちもあったが、それでも、電柱も電線もずっとあり続けて、そして21世紀になり、かなりの時間がたった。
今日も外へ出れば、電線も電柱も、そこにある。
エヴァンゲリオン
空を見上げれば必ず視界に入ってくる「日常的」な存在として、嫌いでも好きでもない「電線」だったのだけど、いつの間にか、かっこいいものとしても感じるようになったのは、アニメなどの影響、特に「エヴァンゲリオン」を見てからかもしれない。
作品中に、それこそ「日常的」にずっと映り込んでいて、でも、それは当然のことながら、アングル的な工夫もあるだろうから、かっこいいものとして見えることも少なくなかった。
「あまりに馴染みすぎてエンタメでは電柱や電線が“記号化”している例も。例えば公衆電話や鉄道の踏切などノスタルジックな風景がピックアップされるアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 鋭意制作中』というポスターでは、そのテイストを象徴するように、広がる青空と雲をバックに電柱と電線だけが描かれるという象徴的な表現になっています」
(メディア研究家の衣輪晋一氏)
写真家
当たり前だけど、芸術の世界では、電線や電柱は、ずっと描かれてきたようだ。
個人的には、そのごく一部しか知らずに恥ずかしいが、写真家では、金村修の作品には、都市の一部として電線も電柱も、欠かせないものとして撮影されていて、それは、やはり、不適切な表現かもしれないけれど、とてもカッコよく見える。
電線絵画展
電線や電柱に、ただ否定的な思いを向ける人が少なくなってきたことを裏付けるように、2021年には、東京都の練馬区立美術館で「電線絵画展」が開かれている。
街に縦横無尽に走る電線は美的景観を損ねるものと忌み嫌われ、誰しもが地中化されスッキリと見通しのよい青空広がる街並みに憧れを抱くことは否めません。しかし、そうした雑然感は私たちにとっては幼いころから慣れ親しんだ故郷や都市の飾らない、そのままの風景であり、ノスタルジーと共に刻み込まれている景観でありましょう。
この見方に反論するわけではないけれど、過去だけではなく、現在も目にし続けるとしたら、それは、すでにノスタルジーだけではなく、単に身近にあるものになっているのかもしれない、とも思う。
電線愛好家
あいまいな記憶に頼ることになってしまうのだけど、電線・電柱をなくそう、といった言葉が多く聞かれていたのは、おそらくは日本が景気がいい頃のはずで、それを多く聞いていれば、電線や電柱に否定的な気持ちにもなりやすいと思う。
だけど、その後、「失われた30年」とも言われる「バブル崩壊以後」の時代には、余裕もなく、電線を地中化する、という話は、それほど聞かれなかったはずだから、その頃に育った人間にとっては、電線や電柱は、ごく当たり前に存在するだけのもの、だったのかもしれない。
そんなことを思うのは、女優・タレントで、「電線愛好家」と自称する人物が、1992年生まれだったせいもある。
電柱の上に変圧器がありますよね。そこから伸びてる太い電線がぐねっと曲がっているじゃないですか。あれとかいいですね。
あの電線って恐らく電圧は6600Vで、こう見ると柔らかそうですが、実際はかなり重くて硬いんですね。それが、そんなことをまるで感じさせない曲線を描いているところがたまらなくて。一見すると、CGで描いたみたいじゃないですか。
工業的なんだけど、ちょっと生き物っぽい雰囲気があって。さっきからずっといいカタチしているなあと思いながら、あの電線を見ていました。
これが、「電線愛好家」で、女優・タレントの石山蓮華の言葉だけど、これは、電線や電柱を、そのまま見つめる視線なのだと思う。これは、「先進国には電線がない」と言われていた世代とは違って、純粋な見方のように感じる。
電線や電柱は、すでに、ノスタルジーだけで括れないほど、日常的でありながらも、長い年月存在し続ける、ある種の「自然」や、すでに「歴史」のようになっている、とも言えそうだ。
日本橋の再開発
これは、電線や電柱と直接の関係はないのかもしれないが、日本橋の再開発にも、似たものを感じる。
現在、日本橋の上を通っている首都高を地下化するというプランがあるが、それは、まるで、とにかく電線や電柱を地下化しよう、という発想とつながっているように思う。
写真家の大山顕さんも「交通インフラがこれほど重層的に重なっている地点は世界中にもない。首都高が上にあるからこそ日本橋はクールでかっこいい場所」とした上で、再開発後の日本橋のイメージを「テーマパークみたいでイケてない」と話した。
大山顕氏は、日本橋は、地下には銀座線。川も15世紀。日本橋は江戸時代。首都高は昭和。それを重層的と表現していて、新しく日本橋を作るのであれば、今の首都高の上に架けるべき、という話もしている。
それを聞いてからは、個人的には、それ以外のイメージが浮かびにくくなった。
未来に残したい風景
人間の記憶は、場所にも宿るような気がする時がある。
すべてを更地にして新しい建築物をたてる方が、未来を感じさせるように思うのは、高度経済成長以降に身についてしまった幻想ではないだろうか。
それまでの歴史を残した上で、さらに新しいものを作っていく方が、そこに、それまでの「時間」が形として残っているから、過去に続く時間がイメージしやすく、だから、それを踏まえての未来が、さらに遠くまで想像できるように思う。
日本橋の上の首都高も、すでに50年以上の歴史がある。電線や電柱は、さらに長く、100年の時間を生き残ってきて、今も、電気を送るための実用的な役目を果たし続けている。
防災の観点から見て、電線や電柱がない方がいい場所は確かにあるはずだけど、それだけでなく、全部見えなくしてしまうのは、ノスタルジーという感傷的な理由からだけではなく、これまでの歴史を軽視するような態度でもあり得るから、やめた方がいい。
そう思えるほど、「電線のある風景」は、かけがえのないものになっているはずだ。
もしも、電線も電柱も全くなくなってしまったら、空を見るとき、物足りない気持ちになるのだと、思う。
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