ラジオの記憶③「伊集院光に教えてもらったトム・ブラウンの凄さ」
伊集院光のラジオへの評判は、安定している。
自分自身が、そんなに熱心なリスナーではないので、その面白さと凄さについて、きちんと語れるかどうかも自信はない。でも、2016年、同じTBSの朝の帯番組を持った時に、深夜の番組の存続が危ぶまれたというか、朝の番組をしているのに深夜3時までの放送は無理ではないか、などと、ただのリスナーでも思ったのに、今では、そんなことがあったとは思えないほど、朝も深夜も、変わらずラジオ放送が続いている。
不思議な話題
コーナーがあって、そこに「ハガキ職人」(今はメール主体になっても、この呼び名は変わっていない)が、優秀なネタを送ったりして、それは深夜ラジオを支える大きな柱の一つでもあるのは常識のようだ。当然、伊集院光の「深夜の馬鹿力」でも、そうしたコーナーが番組を支えている。
そんな中でも、深夜3時の終了間際に、不思議なコーナーがたまにある。あるリスナーからのメール。
自分が幼い頃に、〇〇ちゃんと呼ばれる、今でいえば、ホームレスに近い人がいて、でも、その人は、子供たちには優しく、近所の子供達には人気があった。だけど、ある時、明らかに別人なおじさんがいて、何だかとまどっていたら、周りの子供は全部、まったくためらいなく、同じ〇〇ちゃんと呼んで、それからも同じように、仲が良く、人気のある構造が変わらなかった。自分は、納得がいかなかったが、でも、その後も、誰も何も言わないまま、今もなんだか よく分からない気持ちがある。
真偽は分からないにしても、すごく変な話だし、私自身が記憶だけで書いているので、詳細は違っていると思うが、そんな不思議なことが、だけど、たまにあるような気がして、それは、月並みだけど、「この世の不思議」がにじみ出ていることの「報告」に聞こえた。そして、そんな話があってから、ほどなく放送も終わり、午前3時という時刻も含めて、なにか取り残されたような、放り出されたような気持ちが残ったりもする。
違う放送日には、こんな話だった。(これも詳細が違うと思います。すみません)。
ある人が、電車に乗っていた。
気がついたら、眠ってしまっていた。
首都圏で、長い距離を走る電車だから、寝過ごすと、すごく遠いところまで連れていかれる、というこわさがある。
誰かに起こされた。
ワンピースを着た不思議な印象の女性が、こちらを見て、「次は〇〇よ」と、自分が降りるはずの駅の名前を告げてくれた。
思わず、御礼を言って、それから、あわてて降りた。
安堵感とともにホームへ降りたあとに、思った。
あれは、誰だったのだろう。どうして、自分が、この駅で降りることを知っていたのだろう。
それだけで、何も分からないまま、ラジオの放送も終わった。
このことを、「嘘だろ」というのでもなく、オカルトに持っていくのでもなく、そのまま受け止める伊集院がいたので、その不思議な感じが、そのまま伝わってくるのだと思った。その距離感は、本人は嫌がりそうだけど、品がいい、ということだと思う。
トム・ブラウン の無観客・無配信ライブ
2020年3月30日。
今も、コロナ禍は続いているが、3月の下旬というのは、「コロナ禍」という言葉もまだ定着していなかったと記憶しているし、もうすぐ「緊急事態宣言」が出るかもしれない、といった緊張感の質が硬めで、何か、ちょっと違ったことをすると、「不謹慎」などと言われそうな時だった。
その夜、伊集院光の「深夜の馬鹿力」で、トム・ブラウンのことを話していた。
それは、微妙な含みを持った言い方での、高評価をしていたように思う。
伊集院自身も、インターネットで見つけたらしいが、漫才コンビ「トム・ブラウン」が、3月31日予定で、ライブを行う。それも、無観客は分かるとしても、それに加えて無配信。だから、誰も見ることが出来ない上に、シークレットゲスト有り。という条件までついている。
これは、なんだかすごい、としか言いようがない行動だった。
その上、直前になって、中止のお知らせ。
トム・ブラウンは、気がついてくれなくていい、というような気配もあるから、この行為があったことを、伊集院がラジオで話してくれなかったら、知らないままだった。だけど、伊集院が、その行為を取り上げてくれたことで、その行為のことを知ったし、「正当な評価」をしてくれたおかげで、トム・ブラウンの凄さを、もしかしたら初めて知ることが出来たのかもしれない。
この時期は、外出自体も怖くなりつつあったり、いつ「緊急事態宣言」が出されるか分からない状況だったけれど、トム・ブラウンの行為を考えると、笑いというよりは、不思議で、かなり遠くまで行ける想像力を確実に刺激されたような気もしていた。それは、うれしい気持ちに近かった。
伊集院光とトム・ブラウンとマルセル・デュシャンと
展覧会に、取り外した男性の小便器を展示しようとして拒否され、そのことに対して、アーティストが制作するかどうかが問題ではない。アーティストが選べば、それが作品になる、という主張もして、それがレディメイド(既製品)といわれるようになり、その行為全体をおこなったマルセル・デュシャンは、21世紀にまでつながる、いわゆる現代美術のスタートになったと言われている。
アートと芸能の、どちらが、上とか下ということではなく、トム・ブラウンの行為も、それを見つけて評価して伝えた伊集院も、アート(それもマルセル・デュシャン寄りの)と芸能の、どちらとも思えることに見えた。
その後、これはテレビで見たのだけど、トム・ブラウンのみちおが、自粛期間中に、自分で自分にものまねリレーを続けている、ということを知った。それは、理解不能の奇行といった見られかたをされているようで、さらっと紹介されていたのだけど、ああ、やっぱりすごいんだ、と思えたのは、伊集院の3月のラジオを聞いていたからだった。
そのあと、伊集院は、ラジオで、このみちおのエピソードに触れていることを知って、3月の「無観客・無配信・シークレットゲスト有り」のあとをフォローしていることになるから、その放送は「トム・ブラウン パート2」のように感じた。
伊集院の行為には、筋が通っていると思った。
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テレビについて①「オードリー 若林正恭 バラエティをドキュメンタリーに近づける力」
読書感想 『認められたい』 熊代亨 「承認欲求で悩むすべての人に」
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