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とても個人的な平成史⑦『雑誌の隆盛と衰退』  「広告でペイできるから」。

 雑誌業界は、平成に入る時期には、かなりの勢いがあった。

 その頃は、景気がいいと言われていた。自分自身は、そこまで実感できなかったが、ちょうど平成が始まる頃にフリーのライターになり、私のような「売れないライター」でも生活が一応できていた、という事実が、景気がよかった、という証明でもあった。そのことを、景気が後退してきてから、実感として、分かることになる。


ティファニーのオープンハート

 1989年の12月に、取材で大阪に行ったことがあった。食事の時、デパートを見たら、いわゆるブランドショップばかりが並んでいるフロアに、ティファニーもあった。その店頭に、私と似たような、そんなにお金もなさそうなカジュアルな格好をした若い男が、本当に密集するように集まっていた。違和感のある光景だったけれど、それは、おそらくはオープンハートといわれるジュエリーを購入するために殺到していたのだと思う。その当時で数万円していたはずだった。

 平成に入った頃は、クリスマスはカップルで(できれば)赤坂プリンスホテルを予約し、宿泊し、彼女へのプレゼントにはティファニーのオープンハート、が定番などと言われていて、そういうことに無縁な私でも知っているくらい、広く伝えられていた。それに対して、自分は地味な暮らしをしていたので、実在への疑いの気持ちもあったのだけど、大阪のデパートの光景を見て、本当かも、という驚きと同時に、やっぱり異様な光景に見えた。

 私が仕事をしていたのは、主に出版社で、その頃は、まだ原稿に手書きで、それをファクシミリで送っていた。平成に入って、何年かたつころには、そろそろワープロを使ってくれたら、とお願いをされたりもしていたのだけど、なんだか頑固に手書きを続けていた。
 あとから考えると、そういうことを、売れないライターがしては、よけいに仕事がなくなるのだけど、若いせいか、大丈夫だと思っていた。ただ、それでも仕事があったのが、景気のよさだったのだと思う。

「広告でペイできるから」

 そんな時代に、よく聞いていた言葉の、ひとつは、新しい雑誌が創刊される時に、耳に入ってきた。

「広告でペイできるから」

 その頃は、広告費にも、お金を使いたい企業が多く、新しい雑誌を出す時に、広告が集まりやすく、そのことで製作費や利益も出ていた、ということだったと思う。

 それは、経営的には正しいし、ありがたいことなのかもしれないけれど、その言葉が出て、そこから先に、だからよけいに手間をかけて、質をあげるというような感じではなかった印象がある。
 そう思ったのは、その言葉とともに、こんなことをよく言われていたからだった。

「読者は、長い文章は読まないから」

 自分自身は、何とか文章だけで読ませるページも作りたかった。一時期、編集者も務めていた時には、ページの見た目が優先されていたのだけど、説明がわかりにくくなるから、という理由で、レイアウトの変更を、アートディレクターにお願いしたこともあった。それは、相手にとっては、やりにくく、生意気な若者でもあったと思う。

 自分自身のそういった行為の積み重ねが、仕事の量がそんなに増えなかった理由の一つだと、今なら分かる。「広告でペイできるから」「長い文章は読まなくて」を聞くような経験は、自分の狭い視界の中だけの出来事で、景気がいい時も、違う取組み方をしていた出版社の人もいるはずだったのだけど、自分に能力がないせいもあって、出会うことはないままだった。

 その頃、雑誌の世界で一番えらかったのは、たぶんアートディレクターだと思う。
 雑誌を作っていく上で重要な、広告を集めるために必要なのは、何より、売れそうな「見た目」だったはずだ。パッと見て、分かりやすく格好いいことが大事なのは、私でも分かっていた。そこを担っていたのが、アートディレクターだった。

雑誌の隆盛と衰退

 私自身は、親に介護が必要になり、自分自身が心臓の発作になったこともあり、仕事をやめて、介護に専念するようになったのが、1999年だった。売れているライターや小説家であれば、多少の休業も、そういう経験も含めて書いていくことができるのだろうけど、スポーツを中心に取材して書くことだけを続けてきたし、何度か仕事を断っていたら、気がついたら完全に無職になっていた。

 それからは、ただの読者として、雑誌を買うことはあった。
 その後の雑誌の売り上げが下がり続けているのは実感としても伝わってきた。インターネットの台頭に、基本的には雑誌が対抗するのは、とても難しいのは想像できるし、自分自身も年々雑誌を買わなくなっている。ずっと売り上げが下降線だというニュースを聞くことも、より多くなった。そして、いろいろな雑誌の休刊も続いている。コンビニの雑誌コーナーも小さくなり続けているようにも思うし、なくなるところも出てきたらしい。


 雑誌は、一時期は出版界を支えるほどの売り上げも誇っていた。

 出版の推定売上が 1兆円を突破したのが 1976 年、2 兆円を突破したの が 1989 年のことである。 1976 年に、雑誌の売上げが書籍の売上げを追 い越し「雑高書低」となり、雑誌が、出版産業 の成長の推進力となった。80 年代の 10 年間の 出版産業の成長率は 40.4%、90 年代の 10 年間 の成長率は、5.1%で、98 年からは、マイナス 成長となり、以後、長期低迷状態である 。
                              『2015 年「出版産業の現状」(出版メディアパル編集長下村昭夫)』より

 そして、すでに少し古いデータだが、2015年で、こうした状況になっている。

 2015 年の出版物推定販売金額が前 年比 5.3%減の 1 兆 5220 億円と、1950 年の調査 開始以来、最大の落ち込みとなった。
 雑誌が 7801 億円(同 8.4%減)と落ち込みが 激しく、雑誌分野のなかで、月刊誌(週刊誌を 除くすべて)は 6346 億円(同 7.2%減)、週刊 誌は 1454 億円(同 13.6%減)となった
                              『2015 年「出版産業の現状」(出版メディアパル編集長下村昭夫)』より

「2015 年「出版産業の現状」(出版メディアパル編集長下村昭夫)」


今でも、ふと思うこと

 私自身は、出版界からは1999年に途中離脱している。そして、仕事をしている時に知り合った方々で、様々な理由で、ライターをやめた人たちもいるし、逆に、今も現役で書き続けている人もいる。どちらの方々にも敬意はあるが、特に今も続けている人たちは、この厳しい時代に生き残っているのだから、本当にすごいと思っていて、ただ頭を下げる気持ちしかない。

 それでも、出版界全体を考えると、景気がいい頃に「広告でペイできるから」「長い文章は読まないから」といった思考が存在したせいで、その後の、雑誌の衰退に拍車をかけていなかっただろうか、とふと思うことはある。そんなことを、途中離脱の自分が言えるような資格も能力もないのは分かりながらも、考えてしまう時はある。


この「とても個人的な平成史」シリーズについて

 「昭和らしい」とか、古くさいという意味も含めて「昭和っぽい」みたいな言い方を聞いたことはありますが、「平成っぽい」や「平成らしさ」は、あまり聞いた事がないような気がします。

 新しい令和という元号が始まって、すぐに今のコロナ禍になってしまい、「平成らしさ」を振り返る前に、このまま、いろいろな記憶が消えていってしまうようにも思いました。

 だから、個人的にでも「平成史」を少しずつでも、書いていこうと思いました。私自身の、とても小さく、消えてしまいそうな、ささいな出来事や思い出しか書けませんが、もし、他の方々の「平成史」も集まっていけば、その記憶の集積としての「平成の印象」が出来上がるのではないかと思います。


(他にも、いろいろと書いています↓。クリックして読んでもらえたら、うれしく思います)。

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