「夏の終わりに、聞きたい曲」が、3曲に増えた話。
音楽に詳しくないし、それほど数多く聞いてきたわけでもないのですが、急に「夏の終わりに聞きたい曲」のことを、分不相応にも、書きたいと思ったのは、夏に聞いて、久しぶりに、とてもいいと思った曲があったからでした。
今は元号としては令和で、個人的に「夏の終わり」に聞きたい曲は、これまで2曲あって、それらは、ちょうど昭和と平成の時代の曲だったので、これで、個人的には「昭和・平成・令和」に、それぞれ「夏の終わりに聞きたい曲」が、1曲ずつできたと思い、この機会に書いて、残しておこうと思いました。
令和の「夏の終わりの曲」 2020年
「Glints」 さとうもか
声の質が、複雑で、甘さと辛さと、なつかしさと新しさがまじっていて、だから、こうして、広い層まで届くと思うのですが、こうした「夏の終わりの曲」の共通点は、できたらいつまでも夏が続いてほしい、それが無理だとわかっていても、というような言葉と、曲で、だから、独特の切なさのようなものが伝わってくるのだと思います。
MVの映像も、身近と思えるような写真が多用されていて、言葉も、あくまでも日常の中で生きてくるものを選択していて、今年の夏、というようなかけがえのなさは確かにあって、自分の中の「あったかもしれない思い出」みたいものにまで、つながっていくような気がするのは、歌詞やメロディーやリズムや、そして何より歌声というもので生じさせられているものだと思います。
そして、同時に、歌詞の中には、『ずっとと思ってはいても、でも限りがあるから美しい』というような表現までされていて、思い出したこともありました。それだけで比較するのは、どちらにも失礼かもしれませんが、ヒロミックスの写真を見たときの感触と、どこか似ていました。
それは、すでに25年ほど前で、誰もが写真を撮るような時代になってきた頃で、当時の10代の女性の写真作品のことです。それを見たときに、楽しそうな瞬間も多く記録されていましたが、それは、撮ったそばから過去になっていくのを、撮影の時にわかっているような写真に、見えました。永遠と、はかなさの両方が伝わってきたように感じ、すごい感覚だと思いました。
さとうもかの曲を聴いて、何度か聴いて、それと同じような感覚があって、夏の終わりの曲には必要な、永遠とはかなさの両方の要素が確かにあると思いました。作者のさとうもかは、1994年生まれです。そして、岡山県生まれで、今も岡山在住で音楽を作って、歌い続けている、というのが、現代な感じがします。
こういう新しめの曲の、好みの話を書くのは、どうしても恥ずかしさを伴いますし、特に音楽のことは、熱心なファンの方への申し訳なさと、「心の若作り」をしているような自分自身への気持ち悪さがあるのですが、それでも、曲を聴くと、ほぼ強制的に、自分に、そんな思い出がなくても、「この夏は、キラキラしていたのかもしれない」という印象に変わるので、それが音楽の力なのかもしれません。
平成の「夏の終わりの曲」 2007年
「若者のすべて」 フジファブリック
ファンの方には失礼だと思うのですが、この曲を知ったのは、2010年にやっていた「モテキ」というドラマを見てからでした。このドラマの各回のタイトルは、曲名になっていて、それぞれの曲が直接の関係はないものの、すごく象徴的なものになって、強く印象に残りました。
そして、そのことがきっかけで聞いてみたら、「若者のすべて」というタイトルでは想像できないような楽曲でした。これまで知らないのが恥ずかしいような、さらには、似ている曲が思い浮かびにくいような、だけど、オーソドックスな名曲でした。
誰もが記憶にあるであろう、もしくは、今日も、その時刻に外へ出たら、味わえるような夕暮れの、そして、何より「夏の終わり」の匂いみたいものまでが蘇る曲で、そして、その歌詞は、具体的なものというよりは、かなり象徴性の高い言葉も並んでいて、だから、聞いた人の「思い出」みたいなものがより反映されたり、再生されたりするようなふくらみを感じました。
そして、月並みですが、切なさは、ずっと漂っていて、歌詞は、かなり言葉を絞り、さらに慎重に選択されているものの、どうやら最後の花火を、会えないと思っていた人に会えて、一緒に見られた話のようでした。それでも、そういうストーリーよりも、かけがえない感じや、今の出来事は2度とないけど、でも、ずっと先まで覚えているのだろう、みたいな、ここでもやはり永遠とはかなさの両方が、伝わり続けている印象の方が強く、だから夏の終わりに聞きたくなるのかもしれません。
さらには、この「若者のすべて」の作詞・作曲を担当したファブリックのボーカル・ギターの志村正彦(1980年生まれ)は、2009年に20代に亡くなっていることも、失礼ながら、この曲を知ったあとでした。それを知ると、2010年放送のドラマ「モテキ」のオープニング曲に、フジファブリックの曲が使われていることも、大きい声で主張はしていませんが、いろいろな意味があるのだと思いました。
ただ、「若者のすべて」を聴く時に、そんな事実を重ね過ぎるのも失礼だと思いながらも、そのことでより切ない感じになるのかもしれません。それでも、「夏の終わり」が、そして、その夏がもう2度ないことを、直接的でないのに、これだけ伝えてくれる曲は、やっぱり貴重だと思います。
昭和の「夏の終わりの曲」 1986年
「シーズン・イン・ザ・サン」 チューブ
「チューブ」というバンドがデビューした時(1985年)は、「サザンオールスターズ」と似ている、という言われ方をされていた記憶がありますが、この楽曲のヒットにより、そのイメージはなくなり、さらには、それから長い間「夏のチューブ」として、毎年、夏の曲を出し続け、それがかなり広く受け入れられていたように思います。
個人的には、「チューブ」の曲の中では、もっとも好きな曲で、そして、「夏の終わり」に、夏が終わらないことを思う曲として、その季節に聴くのにふさわしいと思っていました。
このウィキペディアによると、この曲がヒットしなかったら、「チューブ」も終わっていたかもしれない、と思うと、不思議な気持ちになりますが、その後は、遠くから見ている消費者としては、安定しているバンドの一つだと思っていました。
Jリーグが1993年に開幕し、その時は、本当に「イケイケ」でバブルの再来のようなノリだったのですが、「Jリーグのテーマ」を作り、演奏をしたのが、「チューブ」のギタリスト 春畑道哉でした。そういう「勢い」を担当してきた存在だったかもしれず、そう考えると、昭和末期の好景気を象徴するようなバンドだったのかもしれない、とも思います。
『シーズン・イン・ザ・サン』の作詞は亜蘭知子(1958年生まれ)、作曲は織田哲郎(1958年生まれ)で、1986年当時は、特に、この歌詞は、バブル前のような景気の良さを感じさせてくれます。
単純すぎる見方かもしれませんが、「デッキチェアー」とか「プールサイド」という言葉もあり、少し前の言葉でいえば「リア充」な出来事が夏に多くあった上に、だから、夏が終わらないように、というような願いもあるように聞こえます。歌詞には「やるせない」という表現はあるものの、この楽曲の切なさは、作曲の部分がかなり担当しているのではないか、とも勝手ながら思いました。
さらには、この時代の曲の共通点でもあるのですが、歌詞の中にアルファベットの英語がかなり多く登場しています。これも、今振り返ると、なつかしさにつながるように思います。
熱心なファンには失礼な分析だと思うのですが、それでも、私にとっては、すでに30年以上たっているのに、この曲は、「夏の終わり」になると聞きたくなる曲のままですし、この曲にあるような「リア充」な夏とは無縁にもかかわらず、それでも、若い時の記憶が、少し蘇る曲でも、あります。
(※なお、「夏の終わり」にふさわしい楽曲は、他にも、たくさんあると思いますが、今回は、狭い視野なのは分かりながらも、あくまでも個人的な好みで選ばせていただきました。その点は、ご容赦ください)。
「夏の終わり」が強調される理由
改めて考えると、季節の終わりが、これだけ強調されるのは、夏だけではないでしょうか。
春の終わりも、秋の終わりも、冬の終わり、ともあまり言われません。
どちらかといえば、その季節の終わりよりも、春の終わりは、梅雨入りだったりするし、梅雨の終わりは、梅雨明けで、夏の始まりだし、秋の終わりは、冬が始まるし、冬の次は、春だから、夏だけが終わりが強調されている印象があります。
夏は、少し頭がくらくらするくらいの暑さがあり、解放的になりがちなので、特別な体験をしがちかもしれませんし、そして、何しろ夏休みがあり、誰でも一度は経験している「夏休みの終わり」が、いろいろな気持ちを呼び起こすものになっているせいではないか、とも改めて思いました。
「夏の終わりの曲」の共通点
今回は、3曲だけなので、それほどの説得力がないのかもしれませんが、「Glints」を歌った さとうもかは、26歳。「若者のすべて」をリリースしたときは、志村正彦は、27歳。「シーズン・イン・ザ・サン」の作詞・作曲の二人は、亜蘭も織田も、当時は26歳。
それは、単なる偶然のはずですが、20代後半になると、若さはいつまでも続かないことを実感としてわかる時でもあるし、「夏の終わり」と「若さの終わり」は、かなり重なる部分もあるので、そうした楽曲を制作できる、ということかもしれません。
そして、他の季節を歌った曲もそうかもしれませんが、「夏の終わりの曲」は、本当に「夏の終わり」に聴くと、その夏に特に何もなかったとしても、その楽曲の力のおかげで、何か大事な思い出があって、だからいつもの夏なのに、「特別な夏」のような気持ちにさせてくれるような、不思議な力が増すように思います。
だから、「夏の終わりの曲」は、当たり前のことかもしれませんが、「夏の終わり」の時期に聴くのが、一番いいのかもしれません。
余計な心配
ところで、ここからは蛇足ですが、さとうもかが、「Glints」をリリースしたのは8月の上旬ですから、この楽曲は、去年までの夏のイメージの影響が大きいと推測できます。
今年(2020年)のように、マスクをして、密を避けて、夏フェスもなく、祭りも中止になったような夏は、ほとんど初めてのことなので、そういう「特別な夏」の「夏の終わり」に関しては、そのことも含めての「夏の終わり」の楽曲ができるのは、これからだと思います。(だけど、これは、若い人たちには、あまり関係ないかもしれませんが)。
ここからは、さらに考え過ぎかもしれませんが、さとうもかの楽曲は、「これまでの夏の終わりの曲」の最新曲でもあって、もしかしたら、本当に2度と来ない「夏の終わり」の楽曲だから、できた瞬間に、なつかしさを、まとわざるを得なくて、だから、より切なく感じたのかもしれないとも思いました。
来年の「夏の終わりの曲」は、全く違うものが出てくるかもしれず、それには、期待半分、不安半分ですが、「こういう夏でも、楽しく過ごせるきっかけにもなりえる曲」が誕生するかもしれないので、やや期待が上回っているのが、2020年の「夏の終わり」現在の、個人の感想です。
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