「不安の青空」。 2020.8.1.
夜中、目が覚めたら、体があつかった。
それが気温があがったせいなのか、自分の体温があがったのか分からなかったが、その時に、東京都のコロナウイルス の新たな感染者が、400人を超えたということを思い出して、それは、あれだけいろいろなことがゆるんでいて、何の対策もなければ、増えて当然だろうし、来週に向けて、もっと増えると思っていた。でも、自分がかかってしまったのではないか、と夜中の暗い中で思ったら、急にこわくなった。
感染の恐さ
感染者が、ここ何日かで、急に増えていっていることが、それは2週間前の結果で、予想通りなどと、自分では冷静なつもりでいても、ちょっとでも体調が悪いような気がすると、こわさと不安が、襲ってくる。すぐに37度5分以上、そして、感染。みたいなことを思ってしまう。
もし、かかっていたら、ぜんそくを持つ妻には絶対うつしちゃいけないし、などと思っているけれど、もううつしているかもしれないし、だいたい、自分だってもう若くないから、かかっていたら死ぬかもしれないし、と思って、さらに怖くなった。
なにより、命が助かったとしても、もう生活が違ってしまう恐怖があった。「自粛警察」など、これまでのいろいろな動きを見ると、差別や攻撃をされるような怖さもあった。また、人生が変わってしまって、再び底まで落ちたら、もうそのまま上がってこれないような、そんな恐怖もあった。
なるべく外出をしない。外へ出たら、「ソーシャルディスタンス」を守る。マスクをする。手と顔は石けんであらったり、消毒もして、うがいをする。それを徹底して、それで感染してしまったら仕方がない、と他のことはなるべく普通に暮らす。
それを妻とも相談して、決めて、ある程度の覚悟と安心があったはずなのだが、実際に体調に不安が宿ると、とたんに恐怖と不安に負けそうになる。
夜中に、20年ぶりに蘇った実家にあった電子体温計ではかったら、いつもよりも時間がかかったみたいで不安がましたが、36度だった。安心はしなかったけれど、また寝た。出かける先では、どこも検温をする場所が増えていて、そこで引っ掛かったらどうなるのだろう。これだけ気をつけても、どこかで感染することもあるから、などと思っていたら、まだ体は熱い気がして、それで、眠りが浅くなった。
午前8時に起きて、体温をはかったら、今度は35度8分だった。自分にとっては通常モードだった。それでもなんだか熱いような気がするのは、気温のせいかもしれなかった。出かける時に、いつも使う路線が遅れているのを知った。違うルートを使うとすれば、早めに出ないと、と焦りが急速に高まる。
夏とマスクと未来と不安の混在
外出をすると、体温をはかって、ほんの少し落ち着いた気持ちが、また不安に突き動かされる。
空は、晴れていた。
午前9時前の私鉄の電車は、もう当たり前のように「ソーシャルディスタンス」はなくなっていて、窓は少しあいているが、セキの声が聞こえ、また別の場所から、セキが響く。そんなことを気にしているのは、私以外にはいないような気もしてくる。
それでもマスクは、ほとんどの人がしていて、最初の電車で若い女性が1人。次の電車で若い男性一人だけが、マスクをしていなかった。別に責める気もなくても、やたらと目立って見える。初老の夫婦が、黒い服を着ていて、これから葬儀場に行くようだった。
気温は高く、天気予報だと30度を超えるらしい。
ホームの掲示板に、女性誌の広告が4つ並んでいて、それは、「学ぶ」「才能」といった、すでに未来のことを考えているような言葉が並んでいる。
車両の中でマスクをずらして、ティッシュを出して、とても静かに鼻をかんでいる女性がいる。そこには気遣いだけでなく、微妙な怯えもあるのかもしれない。
乗り換えの時、いつもと違うルートだから、なんだか焦って、人の波にまじるように、自分も前の人と「距離」をつめていることに、少したって気づいたのだけど、もう、いまさら「距離」はとれない。
あと1週間後には、たぶん、もっと感染者は増えているはずで、などと思うと、やっぱり恐い。
山手線に乗り換える。
スーツケースに、飛行機のマークのタグみたいなものがついていて、サングラスをかけて、おへそが見える服装の、若い女性が座席に座っている。でも、マスクはしている。
もう夏は来ている。
山手線は、土曜日のせいか、それほど人はいないが、座席は「距離」がなく、びっしりと座っている。窓はほぼ閉まっている。私は、座らずに立っていた。
ドアの上の小さい画面にニュースが流れている。
400人を超えただけで、こわさと不安で、気温の高さを、発熱したかと勘違いしてしまったのだけど、東京都内では、新しく感染してしまったのは、463人と、さらに増えた。「天井知らずの状況」という見出しがあって、それは、また数字が上昇する予言に見える。
その画面では、コロナ禍でがんばっている地域の短いドキュメントのような映像も映って、コロナ禍が終われば、ということを登場している人が話しているが、今の状況は本当に終わるのだろうか、といったことを思ってしまう。
優先席に若い女性が座っていて、マスクをあごにずらしたまま、スマホに夢中になっていて、そのままになっている。降りるために立ち上がる前にマスクをセットしていた。冷静な仕草だった。
不安に慣れたような気配
用事が終わって、午後4時半頃、駅に向かう階段をあがっていたら、正面から若い男性3人が横に並んで歩いてきて、すれ違うには、体がくっつくらいなのだけど、まったく気にしないで接近してきて、直前で、そのすみっこの隙間をかろうじて、すれ違えた。
電車の座席には「距離」がない。
「距離」がなくなってから、もうずいぶんとたっている。
窓は半分くらいは開いている。
若い女性が隣り合って座っていて、マスクをしているが、普通に会話をしていて、それがまだ目立つくらいには、車内は静かなままだった。
でも、自分が単純に緊張感が減ったせいで、そう感じるのかもしれないが、電車内に張り詰めた感じがなくなってから、2ヶ月くらいはたつと思う。
車両の隅に、優先席が向かい合っている場所がある。
若い男性の足元には、レッドブルの空き缶が置いてある。
向いの若い男性は、アサヒスーパードライの500mlを飲んで、表情が大きく動いている。
ドアの上の小さい画面では、天気予報が流れ、どうやら梅雨明けらしい、と知る。
そのあと、ニュースも続く。
アメリカのスポーツのこと。
有名ボーカリストの結婚のこと。
何か明るい話題が続いている。
歌舞伎座が再開する。
ウミホタルの話題。
リーマンショック以上の状況。
大相撲の結果。
一つだけ、今のリアルなニュースが挟まれていた。
電車を乗り換える。
若いカップルが、マスクをして、歩いてきて、すれ違う。
女性の方が、おなかが出る服装をしている。
やっぱり、夏が来ている。
ためらいのハイタッチ
私鉄に乗り換える。
なんだか疲れて座席に座ってしまい、当然、びっしりと座っているから「距離」をとっていない。こういうところで、気を抜くと、夜中の不安が現実化するのだろうか、となどと思う。
向いの座席にマスクをした若い母親らしき女性と、3歳くらい男の子が座っている。マスクはしてないけれど、この年齢ではたぶん難しいと思う。
母親と思われる人は、水風船を持っていて、夏だと思う。
男の子は、マスクをしている私をじっと見て、それから、手を振る。
私も手を振り返す。
男の子は笑って、また手を振っている。
母親と思われる女性は、すみませんね、などと言ってくれる。
いえ、いえ、みたいな言葉を返して、また手を振る。
何度か繰り返しても、ずっと笑って、手を振ってくれている。こちらも気がついたら、笑っていた。
夏が、来ている。
その親子と思われる二人は、降りる駅に着いて座席を立ち、男の子は笑顔で手を振ってくれた。
私も笑って手を振ったら、若い母親と思われる女性に手をつながれたまま、こちらに向かって近づいてきて、気がついたら、片手でハイタッチをしようとするフォームになっていた。
母親と思われる人に、大丈夫ですか?と聞いた。それは、このコロナ禍の時期に、直接触れていいのだろうか、という恐れがあったからだった。こちらが感染をさせることがあったら、未来のある子供に申し訳ない気持ちもあったし、そこから、またいろいろと広がる可能性もあるから、といったことを、瞬間的に考えていた。
かといって、出された手を拒否したら、それはそれで、もっとよくないかもしれない、と思ったりもした。そんなことを、ごちゃごちゃと考えていたが、母親と思われる人は、はっきりとは言わないけれど、穏やかに、男の子に、そのままにさせていたので、私も手を出して、片手同士で、とてもソフトなハイタッチをした。やっぱり気持ちが温かくなった。
それだけのことに、あれこれ考えなくてはいけないのが、今なのだろうけど、そんなことを考えるのは、やっぱり気持ちは重くはなるし、憂うつにはなる。
夜になって、東京都内の感染者は472人と、3日連続で過去最多になった、というニュースを知った。
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読書感想 『コロナの時代の僕ら』 パオロ・ジョルダーノ 「不安の中での知性のあり方」