【連載】黒煙のコピアガンナー 第三十六話 中編 キャシー・ベリー作戦⑤
[第三十六話 中編]キャシー・ベリー作戦⑤
温かな拍手が鳴り響く大広間の檀上にスカーレット・イーデルステインは上がった。段差で手を貸してくれる係員は夫のアンドリューがこの日のために特別に手配した見栄えのいい青年だった。モデル事務所に所属していてスタイルがバッチリで、人前に出る時の所作も無駄がなく洗練されていた。光りそうなほど真っ白に漂白された高級なワイシャツの上で目立っている原色の赤の蝶ネクタイをスカーレットはじっと見ていた。
「どうぞ、マダム」
「ありがとう!」
係員と未来の市長夫人の微笑ましいやり取りを大広間の人達は鳴り止まぬ拍手で歓迎した。
「皆さん、こんばんは。先程ご紹介にあずかりました、アンドリュー・イーデルステインの妻のスカーレットです」
再び大きくなる拍手。
「皆さんにはご存知の方もいらっしゃいますが、私は現在妊娠中の身で、夫の選挙応援に出るのは今回が最初で最後です。本来なら投票日の前日まで夫のそばで支えてあげたい気持ちなのですが、お腹の子と一緒に温かい我が家で応援しようと思います」
スカーレットは会場の一人一人と目を合わせるつもりで右へ左へ、奥へ手前へ目線を移して行った。壁際に立っているライラックの姿も見えた。ライラックは無線でやり取りしたかと思ったら、すっと動き出して大広間を出て行ってしまった。スカーレットはその後ろ姿を不審に思いつつ、スピーチを続けた。
* * *
アマンダは自身の身に起きたことを理解するまでに数秒を要した。
周辺に散らばる血と吐しゃ物は今しがた自分の口から吐き出されたものだ。みぞおちに食らった一発のダメージを如実に物語っている。
咳き込む自分の嗚咽さえもどこか他人事のように俯瞰される。まるで自分はもう死んでいて、上から自分の体を見下ろしているみたいに。
「アマンダ・ネイル。もう一度聞く。俺達と共に歩むなら命の保証はする」
目の前に立ちはだかる男は黒マントで顔を隠していた。ウォルトが言っていたコピアが効かない男だ。コピアガンをなくした今、アマンダにとってその情報は無意味に等しい。男が一通りの殺人術を心得ているであろうことの方がはるかに重要だった。
この男は強すぎる。バークヒルズのギャングでもきっと彼には敵わない。ジェシーやグレイブでも二人掛かりで互角に戦えるかどうかのレベルだ。アマンダがどうこうできる相手ではない。
「何のために?」
アマンダはそれだけ口に出した。吐き気と腹痛に耐えながら話せる限界だった。
「人の自然な営みのためだ。それこそが人類の未来を担うにふさわしい」
「どうして私がそちら側へ加わると人類の未来のためになるの?」
「お前は選ばれたからだ」
「何に?」
「コピアの王に、だ」
アマンダの視界はグルグル回り出す。吐き気に続いて眩暈までしてきた。これは相当な重傷だ。きっと出血も思っていたより激しい。
「私が……何だって……?」
男は舌打ちした。アマンダの抵抗が激しかったためやり過ぎたと自覚していた。
「見せてやる。導師様が浄化する人類の本来の姿を」
男が近づいてくる。アマンダは気力を振り絞って男から逃れようとする。
「うあああっ!」
アマンダの右腕に激痛が走る。大量の冷や汗が同時に噴き出てきた。
「いや……! 来ないで……! やめて……! いやぁ……!」
アマンダは必死だった。ここまでの敗北は初めてだ。自分はこんなにも弱くて、コピアガンがなければ何もできない。いや、コピアガンがあればこんな男に連れ去られるなどという屈辱を味わわずに済んだ。コピアガンさえあれば、自分はまだ戦える――。
ドカン!
何かが弾ける音が目の前で響いた。アマンダは衝撃波で吹き飛ばされ階段を転げ落ちた。
「何だ!?」
「こっちだ!」
男達二人の声が階段の上から聞こえてくる。
「アマンダ!」
その声を最後にアマンダは気を失った。
* * *
バックヤードからの爆音を聞きつけたジェシーとピートはバックヤードに入ってすぐ真下の階段の踊り場にアマンダが突っ伏しているのを発見した。
「アマンダ!」
「やつだ! いるぞ!」
ジェシーが黒マントの男の配置を確認する。ピートは階段を下りてアマンダに駆け寄ろうとしていた。
「クソッ! 走りづらい!」
ジェシーはヒールを脱いで裸足で黒マントの男に飛び掛かる。身長は同じか相手の方が少し高い。黒マントで見えないが体格もいい方だ。おそらくバークと同程度の筋肉量か、若い分より強靭だと思われた。ジェシーにとって自分よりも大きな相手と戦うことは日常茶飯事だ。たとえ体で負けようともその闘志が失われることはない。
「ピート! 行け! アマンダを連れて逃げろ!」
階段を全段飛ばしで下りていくピートの背中に向かってジェシーは叫んだ。呻き声を上げているアマンダはおそらく重傷。すぐにでも専門的な治療が必要だ。アマンダを連れ帰るのが目標だったが今はアマンダの安全が優先だ。ピートと一緒ならアマンダは安全だ。自分はアマンダが逃げるまでの時間稼ぎができればそれでいい。
「ジェシーさん!」
ピートはそれだけ言ってアマンダを抱きかかえて走り去った。
ジェシーの全身から闘争本能が湧き出した。
「やろうぜ」
黒マントの男とジェシーは同時に動き出した。
* * *
ピートは無線でライラックに報告する。
「アマンダが重傷です。すぐに救急車の手配を」
「了解。ピートはどこにいる?」
「俺は……どこだ?」
ピートは夢中で逃げる余り現在地を把握する余裕がなかった。
「ホテルのどのフロアにいるのかすらわかりません」
「ではエントランスへ行け。救急車がすぐにアマンダを運べるようにする」
ピートのミスは想定内と言わんばかりの素早い判断だった。ピートは深く考えず返事をする。
「わかりました!」
「黒マントの男はどこで見かけた?」
ピートはバックヤードの扉に書かれた”North C”の文字を奇跡的に思い出した。
「バックヤードの階段です。えっと、北側のエリアCのバックヤードでした」
「了解。すぐ行く」
ライラックとの通信は途絶えた。
少し落ち着いていたアマンダがまた呻き声を上げた。
「痛いのか、アマンダ?」
「ジェシー兄さんは……?」
「囮になって戦ってる」
「ジェシー兄さん……逃げなきゃ……殺されちゃう……」
「大丈夫だ。あの人は強い。俺はわかったよ。あれは手練れの野獣の目だ」
「でも……」
アマンダはすっと眠りについた。今まで意識があっただけでも不思議なくらいだった。ピートはアマンダをしっかりと抱え直して別のバックヤードの階段を全段飛ばしで駆け下りた。
* * *
エイジャは金髪の女装男との戦闘を手早く切り上げ、アマンダの再捜索に当たった。嫌な空気が漂っていると体が感じている。コピアによる汚染が黒マントを通じて伝わるのだ。この黒マントは導師によってコピアの汚染を防ぐ力が与えられている。その効果が発動すると着用者にも感じられるという仕組みだ。導師の力を世に知らしめるために作られたこの黒マントを着用するのはこの上のない誉れだった。
「待て」
エイジャはその声に足を止めた。大本命のお出ましだった。
ライラックがエイジャの真後ろに立っていた。その距離わずか3mだ。いつの間にその距離に? 気付かれずに歩み寄るには距離が近すぎだ。
「ライラック・イーデルステイン。いや、ライラック・リルケ。あなたもこちら側に付くべき存在です」
エイジャは穏やかな口調で振り向きざまにそう言った。ライラックの表情は硬いままだ。そのように育てられてしまった哀れな実験動物の目だった。エイジャはその虚無しかない瞳に語り掛ける。
「あなた達コピア実験の犠牲者を救うために導師様は立ち上がられたのです。あなたも本来の姿に戻るべきなのです。俺と一緒に来てください」
「私の本来の姿は私が決める。お前達でもイーデルステインでもない」
ライラックの返答は予想通りだった。
「では、これから生まれるイーデルステインの子供もそれが本来の姿ということになりますね」
エイジャはわざとらしく黒マントを翻してライラックに背を向けた。
「待て、何の話だ?」
ライラックは動揺しているようだった。彼女の心を動かすにはスカーレットをちらつかせるといい。そう言ったのも導師だった。この情報が彼女のイーデルステインへの信頼に一石を投じる。手応えを感じたエイジャはライラックを無視して歩き出す。
「おい、話はまだ終わっていない」
ライラックが追いかけてくる。エイジャは走り出す。ただの人間を捕まえるのにお前は力を使わないだろう。だが、それは余裕がある時だ。心をかき乱された今、お前は全力を出さないでいられるか?
ライラックが何かを仕掛けてきたのを感じたエイジャは黒マントを脱ぎ去り目隠しにした。
「待て!」
ライラックの叫びも虚しくエイジャは消え去った。
ライラックは苦々しくも視界を遮られた黒マントを拾い上げる。窓が開いていた。ヤツはそこから逃げたのだと思われた。