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「起きなさそう」ではなく「起こらなそう」


①「起きなさそう」「起こらなそう」どっち?

 「言葉は生き物だから」と言って、変化することだけを良しとし、「文法的に正しいかどうか」を大事にすることを否定する人がとても多い。
 私自身、自分の言葉の使い方が100%正しいとは言えない。未だに間違っている部分もたくさんあると思う(この「未だに」も「今だに」と書く人がネット上にはたくさんいて、非常に気持ち悪い)。
 でも、できるだけ「正しいか」を考えたり調べたりするようにしているし、調べた結果「現代社会で許容されているが文法的に考えると正しくはない」とわかった場合、改めるようにしている。

 私は昨日まで「〜なさそう」と書いていた。
 映画のレビューをよく書くので殺人事件という物騒な言葉が出てくるが、「殺人事件が起こらなさそうな映画」と書く……とか。

 「〜なそう」と「〜なさそう」、どちらが正しいのだろう?とふと気になって調べてみたら、文法的に正しいのは「〜なそう」の方らしい。ただ、現代人の感覚だと「〜なさそう」を支持する割合の方が高いらしい。

 しかし、やはり調べてみた結果「〜なそう」の方が文法的に正しいということだから、私はこれから「〜なそう」を使っていく。

 「起こる」については、「起きる」でも「起こる」でもどちらも正しいらしいのだが、「睡眠をやめて立ち上がって行動しはじめる」というような意味の「起きる」との区別をするために私は意識して「起こる」を選ぶようにしている。
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②頑張らない、考えすぎない、完璧でなくていい?

 私は「頑張らない方が正しい」みたいな考え方が大嫌いだ。頑張らずに他人を不快にしたり他人に迷惑をかけたりしている側が、頑張っている人に対して「生きづらそう〜」とか「肩の力を抜けよw」とか言うのが本当に嫌。それは頑張らない人の自己正当化でしかなく、それを突き詰めた先には堕落しかない。

 「完璧な人間なんていないんだから」と言うけれど、だからこそ人は常に努力しないといけないのだと私は思う。「(完璧な人間なんていないんだから)努力しなくていい」と言うのは、実際には「自分はすでに完璧だ(だから努力しない)」と言っているようなもので、矛盾というか欺瞞というか、何かそういういやらしさ・醜さを感じさせる。
 「完璧でないことを認めるべきだ」と言うなら、「完璧でないことを認められない」という不完全さも認められるべきで、どうしても矛盾が生じる。
 だから「完璧にはなれなくても、できるだけ完璧を目指して努力するべき」と私は考えている。これなら完璧になれない人も完璧でないものを認められない人も内に含むことができ、矛盾が生じない。
 だから私はこの考えが理屈で考えて正しいと思っている。

 そういうわけで、Filmarksで他の人のレビューに「いいね」をする時、内容が良くても言葉をおざなりにしているものにはできるだけ「いいね」をしないようにしている。
 内容だけではなく、言葉の使い方も評価するべきだと思うから。

 インターネット上の文章なんてカジュアルなもので、それが多少おかしくてもいいじゃない!と言う人も多い。しかしながら、普段から「文法的に正しいか?」等をきちんと考えて言葉を発したり文章を書いたりしている人は、カジュアルな場面でもそうそう変な文章は書かないはずだ。
 オリンピックの水泳選手が趣味で水泳する時、めちゃくちゃなフォームで泳いでしまって平均以下のタイムになってしまうなんてことはあるだろうか?
 一流の俳優が趣味で演技をする時、大根役者になってしまうだろうか?
 どれだけラフに泳いでも、フォームの美しさもタイムも平均以上になってしまうのではないか。
 どれだけラフに演技をしても、演技力の高さが滲み出てしまうのではないか。

 「ネット上の文章くらいテキトーでいいでしょw」と言う人は、おそらくフォーマルな場でも正しい(完璧ではなくても90点以上くらいの)文章は書けないのではないか?
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③こういう書き方していませんか?

 「的を得る」みたいに、本来は「的を射る」が正しいが(的をgetして何になるんだ)、誤用が広まってそれももう許容されているという言葉はたくさんある。
 「『的を得る』は本来誤用で、『的を射る』の方が良いよ」と指摘すると、指摘されてから調べて「『的を得る』も許容されているんだ!」と主張する人がいるが、それはたまたま許容されていただけで、「何が正しいかを調べずに本来誤りとされているものを何も考えずに使っていた」という事実は消えない。だから絶対に「的を得る」以外でもそういうことをしていて、そのうちのいくつかは「許容されていない誤用」であるだろう。
 許容されていたとしても、「的を射る」の方が間違っている!なんて思う人は稀だろうし、そう思う人がいてもその人が不勉強なだけなので、「的を射る」と「的を得る」のどちらも選べる状態なら「的を射る」を選ぶ方が圧倒的にリスクが少ない。両方使える状態であえて「的を得る」という人がいるなら、その人はちょっと精神か認知がおかしくなっていると思う。一度精神科あるいは心療内科に行ってみるのをオススメする(冗談ではなく本気で)。
 だから私は「あえて『的を得る』を選ぶことはないはずだから、『的を得る』を選んでいる人は『疑問を持って調べる』ということすらできない頭の悪い人間だ」と確信する。
 「」と『』の使い分けができない人も私としては同じ類い。
 
「」や『』の最後に句点(。)をつけるのも私は嫌なのだが、それは間違いではないらしい。でも私は嫌。
 三点リーダー(…)の代わりに読点を重ねるの(、、)も最近よく見るけれど、私は絶対に嫌。
 「違くて/違くない/違うくて/違うくない」等は文法的に間違っているので論外。今すぐ小学校または中学校に再入学して義務教育をやり直してほしい(無理だけど、そのくらいの感じ)。
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④考えないのが正しいの?

 私は「さまざまな技術が進歩・進化・発展している現代においては、人間の思考力(そこに倫理観等も含まれてくる)を進化させないといけない」と考えているので、頭の悪い人間のままでいようとする人を肯定することに否定的である。
 歩きスマホ・ながらスマホ(自動車や自転車の運転中等)・マッチングアプリを利用した犯罪・闇バイト等も、技術の進化に人間の思考力が追いつかなかった(思考力が追いついていない人間が存在している)がゆえに起こっているのだと私は考えている。

 だから「考えない」ということは許せない。
 人間は基本的に言葉で思考するので、言葉をどれだけ正確に使えるかというのは、どれだけ正確に思考できるかということと比例に近い関係になるだろうとも私は考えている。
 言葉をおざなりにしている人の思考は、線にしてみると繋がらないバラバラの点だらけの思考になるはず。
 私はそういう人が1人でも減るのが社会全体にとって良いと確信している。だから言葉には厳しくなる。

 「考えすぎない」どころか、「考えない」が過ぎている人がものすごく多いのだ。
 もっとみんな考えてみるべきである。

-miinyan-

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