〇〇と僕『つ』~痛風と僕~
東京の梅雨は、毎年決まっていつかを憂う。
そんな今年の梅雨の始まり。
健康診断のために降り立った新宿は、昨年同様雨が降っていた。
昨年と同じ道を辿り、昨年と同じ時間に、昨年と同じ病院へ向かう。
昨年と同じ空模様も相まって、パラレルワールドに迷い込んだような錯覚に陥る。
ホテルのエントランスのような受付も昨年と同じ。受付のお姉さんの笑顔も昨年と同じ。
名前を伝え、説明を受けて、保険証の提示を求められる。
すべて昨年と同じ。
そして、昨年と同じように財布から保険証を出そうとしたが、昨年とは違い保険証はなかった。
忘れたようだ。
しかし、ようやく生じた昨年とは違う出来事が、なぜだか僕をひどく安心させた。
「痛風の薬は毎日飲んでいますか?」
問診室の椅子に座った僕を真っ直ぐに見て、先生はそう言った。
言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。
鼻からすっと息を吸うと、病院特有の匂いが停止していた脳を満たし、僕はその刺激を手繰り寄せ正気を取り戻した。
「……。つ、つうふうですか?」
そう聞き返した僕からパソコンへ視線を移した先生は、画面を見ながらマウスを操作した。
そこに写し出されているのは昨年の僕の診断結果。
「この数値、痛風の人の値ですよ。ちゃんとした検査受けました?」
「い、いや、受けてません。」
「じゃあ今年は必ず行ってくださいね。さもないと……。」
さもないと……。
その恐ろしい接続詞の先は、あまり覚えていない。
本能が咄嗟に心を守ったのだろう。
それでもゆっくりと、でも確実に、真空の時間は流れた。
マウスを操作する乾いた音が、その時はやけに耳についた。
僕は重力を失ったまま、マウスを動かす先生の指先をずっと見ていた。
健康診断のすべての項目を終えビルの外に出た時、すでに雨は止んでいた。
まだ雲が残る空を見上げながら肺まで息を吸い込むと、目の裏ではまだ微かに病院の匂いがした。
出勤までは少し時間がある。
1度冷静になる必要があった。
駅に向かう途中の喫茶店に入って、アイスコーヒーを注文した。
その喫茶店には、歌を歌っていた時に一度来たことがあった。
アイスコーヒーのミルクをかき回しながら歌について熱く語っていたマネージャーの顔を久しぶりに思い出し、嫌な気持ちになった。
まだ僕の中で上手く消化しきれていないのかもしれない。
「キャバクラ通いの貴様に歌の何が分かる。」
当時そう思いながら話を聞いていたことを、淡々とお釣りをトレイに並べる店員の手付きを見ながら思い出した。
表情のない20代前半の男性店員からアイスコーヒーを受け取り、僕は2階へ上がった。
客は僕以外に2人。
僕と同い年くらいのスーツ男と、20代前半の女。
それぞれがスマートフォンを横にして、画面を食い入るように見つめている。
示し合わせたかのように口を同じ形に開け、不気味にギラついた目をスマートフォンに向けていた。
まったく、世の中は不要なモノで溢れている。
そう思うと同時に、舞い上がった意識が彼らとなんら区別ない自分の姿を見つけ、僕は慌ててコーヒーを喉に流し込んだ。
雨上がりの新宿は、生ぬるい空気が立ち込めていた。
上京したての頃は高いビルばかりに目が向いていたが、5年も経った今は側溝にハマった空き缶と曲がり角の吸殻ばかりが目に付くようになった。
いくら物や光で溢れようとも、歩く人、暮らす人が心から愛していない町に魅力なんてない。
カンケンからぐしゃぐしゃのイヤホンを取り出し、心を塞ぐように慌てて耳に付けた。
RadioheadのMy Iron Lungを再生し、早歩きで駅へ向かう。
どうやら僕は、自分で思っていたほど強くないらしい。
駅へ近付くに連れて人通りは増え、流れに逆らわないように改札を抜けた。
無数の人が行き交う中で、僕は孤独を確信した。
山手線のホームに立ち、霧の中コンタクトレンズを探すような感覚で、先生が言っていた言葉の欠片を拾った。
50歳、薬、手遅れ、適度な運動、食生活の改善……。
本当に痩せなければならない。
いつもと同じように山手線が到着し、同じ顔をした人を吐き出す。
と同時に、また同じ顔した人が流れ込む。
僕は遅れまいとその流れに続く。
電車のドアが閉じたと同時に、僕はポケットに手を入れイヤホンのボリュームを少し上げた。
『Radiohead / Lift』を聞きながら
FJALLRAVEN by 3NITY TOKYO 池守
『〇〇と僕』←過去の記事はこちらからお読みいただけます!是非!
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