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【ショートショート】善と悪行

 シゴトが終わった。今日が初めてのシゴトだった。正直に言って気分が悪い。頭で理解していた内容と、実際の内容との差が激し過ぎて、少しナイーブにすらなっている。港の端からみる東京湾の暗い海が、まるで今の心境だ。

 煙草の箱を取り出してはポケットにしまう行為を何度も繰り返し、それと同時に手遊びでライターの蓋を無意識に開け閉めしてしまう。いくら心を落ち着かせようとしても、どうにも落ち着かない。

「おい、いつまでたそがれてんだ。もう行くぞ」

「あ、兄貴……」

 話しかけてきたのはシゴトの先輩で、俺が兄貴と言って慕っている人だった。どうやら兄貴は気落ちしていないみたいだ。むしろいつもよりテンションが高い。多分、シゴトが終わったからだろう。

「なんだ、まだ落ち込んでんのか? 言っただろう、気にすんなって。相手はクズだ。お前が気にする必要はねえ」

「いや、それはわかってるんスけど……」

「わかってんなら何で落ち込むんだ? あ?」

 兄貴がガンを飛ばしてきた。いくつもの修羅場を潜り抜けてきた本物の眼だ。俺が今までに経験してきたのが紙くずみたいに思えるほどだった。

「人は生まれながらにして善か、それとも悪か。どっちだ?」

「えっ?」

「どっちかって聞いてんだよ。答えろ!」

「ぜ、善です!」

 唐突な質問に急いで答えると、兄貴のガンがさらに鋭くなった。俺は恐怖でその場から動けなくなった。この恐怖をあのクズも味わったのかと思うと、最後のあの行動も何となく頷ける気がした。

「お前、このシゴト続ける気あるのか?」

「は、はい……。だって、ここ以外で俺がいけるところなんてねえっすもん」

「だったら早く悪に染まっちまえ。その方が楽だぞ。俺等が善だって思ってる甘ちゃんならなおさらだ。腹の中まで真っ黒にしねえと、持たねえぞ」

「あ、兄貴は……どっちなんすか」

「何がだ?」

「善なのか……悪なのか」

「今すぐケジメつけてこのシゴトやめるなら教えてやるよ」

「い、いえ、結構です。すみませんでした」

 俺は急いで謝り、ここまで乗ってきた車に戻った。

 帰り道、兄貴はやけに饒舌だった。今日のシゴト相手がいかにクズだったかを永遠に語り、俺等は悪を倒すためには必要な存在だといったり、ただし巨大すぎる悪は上に任せておけばいいと言ったり、この世にはいない方がいい奴や知らない方が幸せなことがたくさんあると言ったり、まるで俺をやさしく悪に染めようとしているようだった。



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