「善く生きたい」と「反出生」のあいだ
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6年前の7月26日、相模原のやまゆり園で、重度障がい者を標的にした残忍な殺傷事件が発生した。犯人となり、現在は死刑判決が確定した植松聖死刑囚。彼の裁判を傍聴した雨宮処凛さんが著した『相模原事件・裁判傍聴記 「役に立ちたい」と「障害者ヘイト」のあいだ』を私はこのお盆に読んだ。
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今回のnote記事のタイトルは、この雨宮さんの著作における副題をオマージュしたものだ。
私にはひとり娘がおり、現在8ヶ月になる。他の記事にも書いているが、私には新たな命を生み出すことについて葛藤した末に妊娠を決意し、出産を決意したという経緯がある。そんなにまでして、なぜ産んだのだと言われるのかもしれないと思ったりする。私には、「この世に誕生することは素晴らしいことなのだ」という認識が残念ながら希薄だった。それは、生まれつきの脳の特性によるもので、不安になりやすく、憂鬱になりやすく、いつも世界が灰色に見え、胸がぎゅっと締め付けられるような日々を送ってきたことから得てしまった「認知の歪み」である。
いや、果たしてこれは歪みなのだろうか。ある面では真実なのかもしれない。生きるということはどんなに幸せな人であれ多少は必ず苦痛を伴うのだから、「生まれてくることは手放しで喜べる素晴らしいこと」と言い切れることもまた、「認知が歪んでいる」と言ってもいいのかもしれない。
二元論で語ることは正しくないと思うが、世界のこちらがわとあちらがわがあるように私には思われる。生きるのが苦しい側と、生きることってスバラシイ側とでも言おうか。私は紛うことなき前者に属する人間だ。おそらく後者に属する人が子育てを語るのを見たとき、私はそこはかとないジェラシーを覚える。子どもが産まれる前、これは「私は本当は子どもが欲しいのに産むことができない(精神障害があるから)ので、子どもがいる人に対して醜く嫉妬しているのだ」と捉えていた。しかし、子どもが誕生してのちも、このジェラシーが消えることはなかった。そこで、新たに分かったことは、私が嫉妬していたのは「子どもがいる」ことではなくて、「子どもを当然のように望み、生きることはすばらしいと目を輝かせられる人生を持っていること」に対してなのだということだった。子どもがいることへの嫉妬であれば、自分も出産することでその嫉妬の炎は消すことができる。しかし後者への嫉妬は、永遠に消すことができない。なぜなら、おそらくこの「産まれることは苦痛に溢れている」と感じてしまう脳は生得的なものだろうと思っているからだ。
できることはせいぜい抗不安薬を定期的に飲んで、ある種のトランス状態になって「生きるって案外、いいものかもしれない」という錯覚を脳に起こさせることだ。しかしやはりそれだけでは十分ではない。少しでも、生きていることをよかったと思うために貪欲に自己実現に向かわなければならない。それが、こんな脳を持ちながら出産してしまった罪を償う唯一の方法だ。娘のために強くあらなければならない。生きることに打ちひしがれる姿を見せるわけにはいかないと思っている。生物誰しも、自分の存在理由は、両親の遺伝子が交わったからに他ならない。誕生の理由は決して運命的なものではなく、極めて偶然的なものだ。神に、そなたはこのような人生を送り、この使命を果たせと言われているわけではない。漫然とそこに存在させられる。だからこそ人は苦悩する。なぜ、生まれてきたのだろうと。
冒頭に、やまゆり園の事件の名を出した。なぜか。
植松死刑囚が陥った障害者へのヘイト、すなわち優生思想と、反出生主義は地続きのものだ。そして、「役に立ちたい」と思うことと「善く生きたい」と思うことは似ている。
私はいつも「善く生きたい」と思いながらも、心のどこかに生まれてくることを不幸の始まりと思う反出生主義が顔を出す。植松死刑囚は、「役に立ちたい」と思いながら、役に立たぬものを殺せと言う優生思想を持ってしまった。私と植松は似ていると思える。ただ、ベクトルが逆であるというだけのことだ。
つまり、反出生思想を払い除けるべく「善く生きる」ことを目指す、正の方向を志向する私と、「役に立ちたい」と頑張っても報われず、「役に立たぬ者」として障害者を排除するべく「優生思想の殺戮」という負の方向へ走った植松。この似て非なる構造が見える。「非なる」ものではあるが似ている。これがあるから、私は植松から目を背けることができない。私も一歩間違えれば、植松のようになっていたかもしれない。それであれば、私自身が障害者だから、自分で命を絶つことを選んだことになっただろう。
私は、根底に反出生思想を抱えながらも、それを払いのけようと「善く生きるための戦い」に臨もうと思う。同じようなことを哲学者の早大教授森岡正博先生が語っている。
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戦いは、息の根が止まるまで続くだろう。それは、絶え間ない超克の連続だ。さて、明日も頑張ろう。
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