文章を書いて、生きていきたい
久々にnoteに書く。
人間であることから出てくる苦しみに苛まれて、高校時代から長い鬱状態に入った。私は人生のおよそ半分を精神障害とともに生きて生きて、もうアラサー。いや、まだアラサー……現在三十一歳だ。二十九歳までは「まだやれる」という気がしていたが、三十になってから、「光陰矢の如し」という言葉が突き刺さるようになった。少年は老いやすい。学も成り難い。本当のことだと切に思わされる日々だ。毎日体調が思わしくなく、やりたいことを達成できずに過ごしている。十の位の数の変化は大きいが、されどたかだか二年である。この二年の間に何が変化したのだろうか。それは、人生への絶望と政治への決定的な絶望。人間という種に対する絶望だった。それまでは、私はまだ根拠なき一筋の希望を抱いていたと思うのだ。根拠のない希望とは重要だ。神からもたらされる光だからだ。私の頭の中にはいま、絶望しかないのである。だから文章を書いて、私はその絶望を昇華することにした。
この社会は今、少なくともネオリベラリズムに塗れた日本では、「あなたは世の中の、人さまの役に立てますか?そういう人間しか、社会に存在しているべきではないんですよ」というメッセージを我々に送っていないだろうか。至る所で、私はその空気を感じてしまう。もちろん、うまく行っていたり、アンテナを何らかの理由で鈍くしていたりして、感じていない人もいるだろう。私は、私が思うことがあるからこそ存在する(コギト・エルゴ・スムといみじくもいうように)。私は少なくとも、「人の役に立てない」ということを負い目に感じて生きるようになってしまったーーこれは厳然たる事実として、確認せなばならない。
被害妄想だ、という人もあろう。しかし全ての被害妄想は、その人の中では現実なのだ。その人の生きている現実、その人が知覚している世界を想像しなければならない。
苦しみの中で、人は時に被害妄想的になる。統合失調症は脳の質的変化があり、病気である。自分が被害妄想的な状態にあると自己モニタリングできる限り、その病名は私には適合しない。
しかし、なにかこの社会で被害者の立ち位置にあると感じることは、決して健全な状態ではない。私の心が?
いや立ち止まって考えよう。病的なのは、私の心であろうか。社会の方ではないだろうか。社会を形作る先導的な立ち位置にある政治ではないだろうか。
「人は、恋と革命のために生きている」と言ったのは太宰治の小説『斜陽』の登場人物だ。私は実に、この言葉は正鵠を得ていると思う。人は動物であると同時に、理性の顕現体。動物と天使の間にあるのが人間だと思っている。理性の擬人化とは、あの羽を生やした輝く天使たちのことである。私はクリスチャンなので、天使の存在を信じているーー否、科学的思考に慣れた現代人である私は、天使の存在を知覚することはできないが、「ある」ものだと信じたい。願望なのだ。主よ、私をして、それらを信じしめよ。汝の霊の僕の存することを、私の昏き心に光明をもたらすために。
恋とは、人の動物的側面である生殖に繋がってゆく。サバンナを想像すれば、生殖のパートナーを得るために、動物のオスは闘争し合うだろう。私はこの側面が弱い人間だ。恋心を感じても、異性同性問わず恋愛関係に至ることに恐怖し、可能な限り避けてきたところがある。現在配偶者がいることはいるが、性的関係を持たないーーそれはパートナーシップの破局的な局面を必ずしも意味しない。私は理性において、パートナーを愛しているからだ。そして相手も、それをよく理解している。
革命とは、人がより善く生きるための闘争が一つのクライマックスを迎えた瞬間に発生するものだと思う。より善く生きるとは、敵すらも愛する深い理性的な愛を一人一人のうちに確立し、神なしでもみなが争い合うことなく幸せに生きて行くことを目指すことであると私は考えている。神なしでこれを達せられるとは、私には思われない。人はもとより不完全に作られているからだーー神よりも、それより下位の天使よりも、もっと理性の少ない生き物として。
繰り返すが、人間は獣性と理性の生き物だ。そのそれぞれが、恋と革命に相当する。そしてどちらも、戦いなのだ。
人間は獣性と理性を併せ持つがために生き難い。恋をすれば私を優先しようとするーー他を蹴散らし、自分の遺伝子を後世に残すために闘争する。他方、革命では、ある党派の人たちは、自分だけではなく全ての人を幸せにしようと画策する。しかし次第にそれぞれの思う理想的統治方法の違いから諍いになり、血を流す人が出てくる。彼らはしばしばイデオロギーのために殉死する。フランス革命の王党派と革命派の闘争を見たか。ロシア革命の赤軍と白軍の戦いを見たか。維新の戦乱を見たか。勝てば官軍かもしれない。しかし、それぞれの陣営に守りたいものがあり、それのために殉死した人たちが星の数ある。私はそれを美しいと思うが、同時になんと人の命は儚いものだろうと、塩っぱいものが胸から迫り上がる。
思うに、人は人の群れを究極的には統治できないのである。小さな群れならまだよいが、それですら離反を起こすことがあるーー一番小さなものは二者の間に起こる喧嘩であろうか。究極、統治できるのは自分自身だけある。それを自己陶冶と言ったりする。自分のことならば革新できるのであるが、全ての人を革新できるというのは思い上がりだ。
恋に生きられない私は人間としてははみ出し者だ(ある精神科医は私を非凡人と言ってくれたが)。だから、私は恋と革命の両方のためには生きられぬ。では、せめて革命のために生きよう。言葉による革命を目指そう。
理性が過剰に大きい人間として、人と人とを結び合わせるために、または、絶望にある人のために、言葉を紡ごう。
人の役に立てない私は、文章を書くことしかできない。しかしそれも、どのくらいの人に届くだろう。
新自由主義の時代、ゆっくり思索し、物す人はますますニッチを奪われている。しかし福田恆存は「九十九匹と一匹と」で、実存の苦しみに喘ぐ人に届くのは文学だと言っていた。私はこの言葉を聞いた時、私のニッチはここにあると思ったし、この生存可能域を守らなばならぬと思った。そのために言葉を拓こう。
だれかまだ見ぬ誰か。苦しむ誰かに届くように、些細な言葉でもいいから発信しよう。言葉を紡ぐことが大切だと言い続けよう。そういう人が増える日、この世界は何倍も生きやすく成り、根拠のない希望に溢れるだろう。
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