両親と絶縁、あなたの選択は正しい
あなたのつらい過去や事情を考えると、きっとあなたは正しい選択をした。
僕自身、絶縁とまではいかないが両親とはほとんど会っていない。
就職してからは、4~5年に一度、外で顔を合わせるただけ。
実家には8年帰っていない。
詳しい話は割愛するが、両親と関係を続けることは自分に害と考えたことがその理由だ。
僕のとった選択は正しかった。
間違っているとは思っていない。
両親と距離を取ることができて、少しずつ良い方向に変わった。
だから、選択は正しかった。
そしてこれからも、自分の正義をかざし、悪を憎み、両親を拒絶しながら生きていく。
それが正しい...のだろうか。
正しさは脆い
正しいとは一体なんだろう。
ある正しいと思われる事柄は、違う角度から見てみると正しくなかったりする。矛盾が生じるのだ。
2018年、サハラ以南のアフリカでは13人に1人の子どもが5歳未満で亡くなっている。
彼らは僕たちと同じようにただこの世に生まれてきて、僕たちと違ったのは、たまたまアフリカに生まれたという、ただそれだけだ。
”何の罪もない子供たちの命を救うこと”は、誰がどう見ても正しいこと。
したがって、アフリカの子供たちより恵まれてる僕たちは全員、”最低限の生活費を残して給料を寄付すべき”だ。
と、果たしてこれは正しいだろうか。
正しいことは、別の方向から見ると途端にその正しさが揺らぐ。
そのくらい脆いものなのだ。
親心
こんな話をネットで見つけたので読んでみてほしい。
創作かもしれないし、実話かもしれない。
しかし、いずれにしろ僕に違う視点を与えてくれた。
「親心」 Lacrima(https://lacrima.jp/family/oyagokoro/)
お袋は少し頭が弱く、よく家族を困らせていた。
思春期の俺は、普通とは違うお袋に腹が立ち邪険に扱っていた。
ひどいとは自分なりに認めていたが、生理的に許せなかった。
高校を出て家を離れた俺は、そんなお袋の顔を見ずに大人になった。
その間、実家に帰ったのは3年に1回程度。
俺もそれなりの家庭を持つようになっていたある日、お袋が危篤だと聞き、急いで病院に駆けつけた。
意識が朦朧とし、痩せ衰えたお袋を見ても、幼少期の悪い印象が強くあまり悲しみも感じなかった。
そんなお袋が臨終の際、俺の手を弱々しく握りこう言った。
「ダメなお母さんでごめんね」
精神薄弱のお袋の口から出るには、あまりにも現実離れした言葉だった。
「嘘だろ? 今更そんなこと言わないでくれよ!」
間もなくお袋は逝った。
その後、葬式の手配やら何やらで不眠不休で動き回り、お袋が逝ってから丸一日過ぎた真夜中のこと。
家族全員でお袋の私物を整理していた折、一枚の写真が出てきた。
かなり色褪せた何十年も前の家族の写真。
まだ俺がお袋を純粋に大好きだった頃。
皆幸せそうに笑っている。
裏には下手な字(お袋は字が下手だった)で、家族の名前と当時の年齢が書いてあった。
それを見た途端、何故だか泣けてきた。
それも大きな嗚咽交じりに。
いい大人がおえっおえっと泣いている姿はとても見苦しい。
自制しようとした。
でも止めどなく涙が出てきた。
どうしようもなく涙が出てきた。
俺は救いようがない親不孝者だ。
格好なんて気にすべきじゃなかった。
やり直せるならやり直したい。
でもお袋はもう居ない。
後悔先に立たずとは正にこれのことだったんだ。
その時、妹の声がした。
「お母さん、笑ってる!」
皆が布団に横たわる母親に注目した。
決して安らかな死に顔ではなかったはずなのに、表情が落ち着いている。
薄っすら笑みを浮かべているようにさえ見えた。
「みんな悲しいってよ、お袋…。一人じゃないんだよ…」
気が付くと、そこに居た家族全員が泣いていた。
いびつな愛の形
あなたには、両親との楽しい思い出が一つもないかもしれない。
両親に愛をもらったことなど一度もなかった、そう思っても当然の仕打ちを受けてきたのかもしれない。
だから親を死ぬまで恨むと、強く思っているだろう。
しかし、そんなことに意味はあるのだろうか。
そう思うようになったのは、僕にも子供が生まれ、人生で初めて親になり、親の視点を持つようになったからなのかもしれない。
初めて息子を腕に抱いた感触は忘れられない。
昨日とは少しだけ違う、今日の息子、その成長一つ一つが嬉しくて写真に残してしまう。
親心を子供側の視点から理解することは難しい。
ましてや幼い子供の視点でそれを理解することは不可能だろう。
しかし、僕たちのように、両親と距離を置き(あるいは絶縁し)、子供のころの記憶からアップデートしていないとどうなるだろうか。
そんな親心に気付くのはこの話の筆者と同じ、両親を亡くしたときになるだろう。
僕たちが親からもらった愛は、周りの子と同じような愛の形ではなかったのだ。
少々いびつな形をしていたのだろう。
だから気付くことができなかった。
そんな見方もできるのかもしれない。
両親が生きているうちに、”嫌いでいるのは終わりにしよう”と思っているところだ。
嫌いな人がいたら、好きになるところまで離れればいいのよ ~吉本ばなな~
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