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卑下しそうになった時ほど顔をあげよう。

私は前向きな人間だ。
ひとしきり泣いた後には、自己愛で自分の背中を撫でてやり、肩をすくめて欠伸をし、すっきりと眠りにつける。数年の不眠を経験して思ったのだ、「アホらし」と。

生きろ、そなたは美しい。
時よ止まれ、お前は美しい。いや止まるな、進むのだ。

私は、私の幸福を私自身で決めたいと思っている。
不幸も幸福も、その判断を他人の手に任せたくはない。

けれど、時々どうしようもなく卑屈になるときがある。

私の価値を知っている人をなじりたいときだ。
私は卑下することで、相手を困惑させ、傷つけるために自分を傷つけるのだ、「どうせ私なんて」と。相手が私を大事にしていないことを見せつけようと、自分の胸を突き刺す。

自己愛のベールを剥ぎ取り、血を流して脈打つ私を見せつけてやるのだ。
そこには私の悲しみしかないというのに。


1.毒親育ちの矜恃

母は結婚後に子どもができず、祖母にいびられた。2年ほどして待望の第一子を授かった。宝物のように兄は育てられた。その2年後に私は生まれた。うっかり避妊しなかったが2人目なんて要らないと考えた母は堕そうとし、父が必死に土下座して母が許したことで私は誕生した。

私が4つのときから度々、母から笑いながら聞かされた話だ。

悲しかったかもしれないけれど、子どもながらに納得した。確かに母は、兄を大変可愛がり、私をどこか憎んでいるふうでもあったと。私はよその子に違いないと思っていたけれど、そういうことなら納得だ。

母にはよく叩かれたけれど、他の大人たちからは可愛がられた。勝気で男の子と殴り合いをして仲良くなるような子どもだった。小学校から大学まで表彰状と縁がある程度に努力家で、正義心の強さで味方や敵をつくった。そういう自分を誇りに思い、自分を愛していた。心から信頼し合える友人たちがいて、気を許せる誰かがいる。
母に罵倒されても、私は兄が欲するものを持っている。学校でいじめられ、成績は伸び悩み、壁に穴を開ける兄を尻目に、私はいじめっ子をやっつけ、誰にも褒められない表彰状を机に置き、遊びに出かける。お箸を握るのも、オムツが外れるのも、字が書けるようになったのも兄と同じだ。高校生にもなれば、飛び級と留年で同級生にすらなり、私の宿題をいつも兄は写して教師に一緒に叱られた。


その間、続いていた兄からの性的虐待を、我慢の限界に達したとき、両親に告発した。そして、全ては崩れ去った。

私は犯されても、兄には勝てないと知ったからだ。

母にとって兄は私よりもはるかに尊い子どもで、そのとき母に叩かれた頬は痛みを感じなかった。「痛み」では表現できないもの。かろうじて保っていたものにヒビが入り、崩れ去って何もなくなった、と表現した方が近いかもしれない。

私は、自分を愛している。
何もないちっぽけな存在なのに誇りを持っている。

けれど、他人はいとも簡単にその誇りを奪おうとする。


2.大人の矜恃とは何か

人も関係性も生物だ。

私も生きているから変わる。要らないものを削ぎに削ぎ落として、わずかに残ったもの。私の人生に必要なものは本当に限られている。

生活を支えられる程度のお金と衣食住。
私の仕事で誰かの助けになっているんだなと感じられる仕事量。
私自身を愛しているという満足感。
楽しくバカな話を毎日語れる友人。
ぴたりとくっついて座れば溶けてしまいそうなほど安心する恋人。

子どもの頃には思っていたものだ。「大人になったら。21歳で就職して、24歳で結婚。26歳で出産。子育てと旦那さんの世話をしながら、きっと私は良い母親になれる。そうして立派な人間を世の中に送り出す人になるんだ」

はい、なってません。
なってませんよー、ちーっともなってませんよ!
そもそも他人任せはよくないですね、自分で立派な人間になりましょうね!

ブラック企業に就職して身を粉にして働いた結果、仕事を覚えた代償に上司からパワハラ・セクハラ。その嫁からも嫌がらせを受けてメンタルを潰す。30過ぎてますが結婚してません。ろくでもない男女のセックスの果てに生み落とされ、兄に性的玩具にされ何十年も苦しめられてきた毒性の強いわたくしが、結婚して子どもをつくるって罪深くないでしょうか…あかの他人たちに毒を撒く所業、許されますかね…少なくとも私は私の家族も私自身も許せていない……

「大人になる」って、一部の人間には大変難しいことなんです。


そもそも大人になるって何よ。
人はなぜ就職し、結婚し、女は妊娠出産せねばならぬのか。

私の父は大企業に勤務していた人だ。役職も高かった。
出張と称して家にはほとんど居なかったし、子どもが母親に虐待されてても後から「可哀想に」とお菓子で励ます程度で、助けはしなかった。結婚当初から子どもが成人してからも、女は金さえ与えれば媚びて股を開くと好き勝手してきた。

私の上司も役職の高い男だった。

社会的地位は、人を偉くはしても、人間性を偉くすることはないのだ。
自分を律することでしか、人間性は磨かれない。

べつに人は偉くなる必要はないのだ。
偉くなりたいのは本人の欲であって、神様も仙人も賢者も金稼ぎをしていない。
なんなら、税金おさめて息して生きてるだけで十分に偉い。

とにかく両親を見ていて思うのだ。
人は未熟なままでも就職し、結婚し、妊娠出産できる。

子どもが親を育てる?
バカヤロ、未熟すぎる人間はいくつになっても未熟なんだ。
そのツケを払わされるのは誰だ? 子どもだよ。

とはいえ、人間は何歳になっても未熟な生き物に違いない。
成熟を待っていたら、気づけば棺の中か、宇宙人の力を借りてメタモルフォーゼを起こすしかない。普通の人たちは、未熟だ成熟だなんだと考えることなく、レールの上で順調な人生を送る。だからちょっとでも遅れたり、何かが他の人と違うとパニックを起こすこともある。


3.女の矜恃とは何か

私には長く親しくしていた友人がいた。
か細く女性らしい声で話し、指先がいつも綺麗な友人で、おしとやかに見えるけれど負けん気が強く、学生時代はよく泣いていた。好きなものをシェアし、一緒に出かけていろんなものに心をときめかせた。
20代半ばを過ぎ、彼女に恋人ができるとほとんど会わなくなった。度々会ってもどこかよそよそしくなっていった。集まりの席で他の友人が結婚報告をした帰り道、その友人と彼女と私で電車に揺られていると、いつしか彼女は押し黙ってうつむいてしまった。その様子を気にしつつも、その友人と私が話していると彼女はついに泣き出し、電車の扉が開くと飛び出していった。

「私はまだ彼からのプロポーズも受けてない。なのにどうして他の人はすんなり結婚できるの?悔しいよ」

心配になって電話をかけた先で、彼女は子どもの頃のように悔しがって泣いていた。私は複雑な気持ちになった。友人の結婚を知って卑下する気持ちを当時の私は理解できなかったのだ。

結婚は人生に大きな変化をもたらす。離婚が珍しくなった今でも、それでも人生の伴侶を選ぶ大切なものだからこそ、そのタイミングを他人と比べて決めるなんてバカみたいだよ。自分の人生だからこそ、他人と比較して苦しむことなんてないよ。

私の正論は、彼女の胸に届かず、彼女は押し黙って電話を切った。

その1年後、彼女は結婚した。結婚式で私たちの写真を使っていいかと聞かれ「嬉しい!ありがとう!」と私は答えた。当日、写真がスクリーンに映し出されると会場はどよめいた。半目の変顔でフラッシュに真っ白になった私の顔が手前に大きく映り、その奥で上目遣いをする小さな彼女の顔。共通の知人たちは「え、ちょっと…これ大丈夫?」と言い、私は顔を覆って大笑いした。
彼女が主役の席だからこそ、誰よりも美しく幸福であればいい。
この先も、彼女にとって彼女が一番華やかでいられる人生ならいい。

でも、まあガッカリしたわけです。
いやなんか、しょうもないことなんですけどね…

友情とは何でしょうか。
女の矜恃とは。自分を愛するとは一体なんぞや。

たとえば、ブスだったら負けなんでしょうか。
美人だったら、先に結婚したら、先に出産したら勝ちなんでしょうか?

私は正論が好きな女だ。
人を傷つけ、時に私も傷つく、論理的に正しく揺るがない真っ直ぐさに胸を貫かれるとき、私は目を覚まされたような気持ちになれる。

そうでないものを認めてこその優しさ、魅力もある。
けれどそう信じた結果に他人の弱さに散々傷ついてきた。
他人に依存し、傷つける弱さは美徳じゃない。

醜さとは、何かを騙し、裏切り、傷つける心だ。


4.自信に根拠はいらない

他人はいとも簡単に自信を揺るがすものだ。

だからこそ、他人に自信の軸を委ねてはならないし、ましてや他人を利用して自信を得ようとすることも間違っている。だってそれは誰かを傷つけるし、何よりも、まやかしの自信でしかないのだから。

友よ。
ブスな女と並んで美しいと思われたところで、それは一瞬の栄華に過ぎぬぞ。なぜならこの世に美女はあふれんばかりにいるのだから。あなたより美しい人はいるし、その人より美しい人もいる。そんなものと比較してたらキリがない。いつしか、のっぺらぼうにならないと気が休まらなくなる。

私は、半目でフラッシュに焚かれて真っ白で大きな顔面であっても、己の美しさに疑いは持たない。だって私が背筋を伸ばして微笑めば「とりあえずちゃんとしてる人なんだな」と大体の人は安心してくれる程度に害のない容姿に整えることを知っている。
年老いた母は「お前はこんなに美しいのに、なぜ良い人と結婚しようとしないのか」と嘆く。長い出張から帰宅した恋人は私を強く抱きしめて「君は本当に美しい」と言う。

私はそんな言葉に笑顔で「そうよ」と答えるだけだ。

そうなのだ、母よ。
私は美しい。お前の醜い息子よりも、その息子と結婚したガサツな嫁よりも、お前が殺そうとし、息子ほど大事にせず憎んだ娘は、お前を悔しがらせるほど美しく育ったのだ。

そうなのだ、恋人よ。
お前が時々大事にすることを忘れ、煩わしいと感じる恋人は、お前が考えているよりもずっと尊く美しい存在なのだ。だからもっと大事にしろ。いいか、後生大事にするのだぞ。

自分への愛情は、鼻持ちならないくらいがちょうどいいのだ。

実際の私はさして美人でもないし、お世辞で「おたくの娘さん、綺麗ね〜」と言われる程度。恋人の友人よりも背が低くて目も大きくはないけれど、恋人の好みを体現している、ただそれだけ。さらに年をとればそれすら言われなくなるだろうが、それでも背筋を伸ばして顔をあげて善良に生きていればさして問題にならないだろう。

私ほど私を信じてる人はいない。
だから根拠がなくて「自信」は持てる。
他人を踏みつけようが、他人を敬おうが、自信にはならない。
他人の評価を気にしなければ、自信に根拠なんていらないのだ。

私は結婚しなくても結婚しても、私のままだ。
子を産まなくても子を産んでも、私でしかないのだ。

富豪と結婚しようが、乞食と結婚しようが、私は私。
仕事で成功しようが、無職だろうが、私は私だ。

未婚で部屋では化粧もせずボサボサの髪にジャージ姿、酒を片手にアプリゲーのキャラたちの関係性に「え、めっちゃ可愛い…」と友人にスクショを送りつける、非生産性の塊の私でさえも、私は私に満足している。


5.それでも泣く日はある。だから今日も顔をあげろ

これほど愛しい私自身ですが、よく泣きます。

両親の愛情が兄へ注がれる瞬間を目にすれば、涙がこみ上げてくる。何十年も傷ついてきた私の中にいる傷ついた私は声をあげて泣くのだ。母の愛がほしいと。兄をこらしてめてやりたいと。

結婚や出産を諦めながら、普通の幸福に焦がれる時だってある。

ひとりで戦い続けることに疲れてしまう。誰かに甘えて、赤子のようにあやされながら生きたい。そうされる権利があってもいいし、私を愛しているならそれくらいの義務を負ってもいいはずだ。

だから、口を尖らせて私はわざと卑下する言葉を口にする。
本心なんかではないのに。
相手を困らせるために、わざと卑下して自分で傷つくのだ。

どうせ私なんか、親からもさして愛されなかった子どもだから……
どうせ私なんか、毒性の強い女だから結婚や家庭とは無縁なんだ……
どうせ私なんか、冷酷だから親友との友情も疑ってしまう……

とても未熟だ。
卑下する私は、幼稚で子どもなのです。

求めるほどではなくとも、親は親なりの愛情を私に向けている。だから私は親を傷つけることができる。この先も一緒にいたいと彼も思っていることを知っているから、別れを切り出されないと高を括って彼に意地悪を言える。友だちも自分の人生を生きるのに一生懸命だと知っているのに、わざとそんなことを言うのは寂しいからだ。

そう、寂しいから卑下するのだ。
もっと愛されたい。構われたい。もっとほしい、世にいう”幸福のテンプレ”とやらを。本当に幸せになれるのかよう知らんが、とりあえずもっときゃ皆が認めてくれるであろうものをなんでもいいからくれ。
求めるばかりで、自分のものにもせず、駄々をこねるのは未熟で稚拙な証拠。

少しの嫌味や涙は許してあげよう。
人間なんだし、傷つけた側もそれくらいには付き合う度量があったっていい。


理解を示すのは簡単だ。共感しようとすることも、さほど難しくはない。親は親なりに、彼は彼なりに、友人は友人なりに、一生懸命に自分の幸福を追い求めている。私と同じように。

でも、他人の物語は私を幸せにしてくれることはない。

涙を拭ったら、顔をあげ、卑下する気持ちも他人を責める気持ちも切り離そう。
すぐには難しい。だから、ちょっとした自分なりのコツを見つけておくことも大事。


イヤホンを耳に入れ、音楽を流す。
手のひらが温かくなるよう擦り合わせ、温まったら両手で顔を覆う。
冷たくなった頬や鼻先を優しく包み込む。
泣いた目蓋が明日は腫れませんように、と呪いをかける。

手を離し、目を開けばさっきよりずっと世界は明るくなる。
腕を回して肩を解放し、背中の筋肉を動かす。
首も回したら、PCや紙の前に座り、書き出すのだ。

傷ついたこと。
怒りや悲しみ。

そして自分を褒め称える。
自分の良さを書き連ねる。
そして、自分を「愛している」と実感する。

不思議なほど、ホッとするはずだ。
もう大丈夫だと。私は”大人”になれると。


誰かに寄り掛からなくても。
誰かを利用しなくても。
私は、私として、幸せでいられる。

だってこの人生の主人公なのだから。
これは、理想的な家庭環境も職場も得られなかった主人公が、葛藤しながらも自分や周囲を大切にし、人を愛するようになる物語だ。彼女は前向きで、どんな苦難にも立ち向かえる。だから、泣いても笑うのだ。

ヒーローに苦難はつきものだ。
凡庸な主人公の方がメジャー。
善き人が幸福になるのは自然。

ちっぽけな存在でも、信念を持って生きている私自身に誇りを感じ、私は小さな幸せを噛み締める。

「こんなに辛いことが多かったんだから、もっと幸せになってほしい」とある友人は言うけれど、私は十分に幸せなのだ。だって、本当に大切なものをすでに持っていると思えるのだから。


どんな物語を編んでいきたいですか?
”あなた”をどう描きたいですか?

あなたをいつでも見つめているのはあなた自身だ。
わくわくと期待するその眼差し。
あなたの成長を望むその気持ちに応えられるのは、あなただけだ。

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