【不登校】笑わなかったら、笑えなくなった。話さなかったら、話せなくなった。
Nちゃんへ
僕が今まであまりしっかり話してこなかった、中学時代のことをお話しします。
僕は中学1年生の2学期から、中学3年生の1学期まで、学校に行かず、家にいました。
別にいじめられていた訳ではなく、微熱と下痢と腹痛が続いていたのです。お医者さんからは「過敏性腸炎」と診断されましたが、特に治療や服薬はせず、家で寝ていました。
朝の7時頃、両親と兄妹が慌ただしく朝の準備をする物音で目が覚めるものの、布団を頭までかぶってまた眠っていました。
そうすると、大体10時くらいには自然と目を覚まし、そこからボーッとただ時が過ぎるのを待っていました。
母親は僕の病気に理解をしてくれて、優しく接してくれましたが、父親は1日中家にいる僕に対して憤りを感じ、たまに怒鳴ったり、殴ったりしました。
まあ、父親世代は世間体を気にするので、10時まで寝て、たまに午後、学校指定の青いジャージを着て保健室へ登校する息子が許せなかったのでしょう。
今なら、その気持ちを理解できます。午後に青白い顔をして町を歩く中学生って、やはり普通じゃないですよね。それが自分の息子となると、、、
今なら心配をかけてごめんなさいと素直に父親に伝えられますが、当時の僕は、自分を理解せずに怒り、暴力をふるう父親のことが許せませんでした。
おそらく何十回も怒られていないと思いますが、「怖かった・嫌だった思い」とある種の「自分に対する情けなさ」が僕をさらに委縮させ、家族との接点を極力減らし、引きこもるようになりました。
こんな日々を過ごすうちに、僕は「笑うこと」と「話すこと」をやめました。
常に無口で無表情。そんな生活を約2年送りました。
時は経ち、中学3年生の2学期になったころ、高校受験を控えた僕は身体に無理をして学校に行くようになりました。そして、学校に行ってあることに気づきました。
それは、話そうとするけど言葉が出ず、大きな声が出せないのです。面白いのに笑えないのです。
衝撃でした。
元々、友達も多く、小学校の時に所属していた野球部の仲間たちも同じ中学校だったので、久しぶりに登校する僕をすごく歓迎してくれました。
しかし、何も話さず、無表情な僕を見て、顔は笑っているけれど、何か異質なものを見るような目を僕は感じました。とてもショックでした。
話せず、笑えないことの衝撃に加え、親友たちの目に排他の色を見たショックで立ち直れそうにありませんでした。
登校再開初日の晩、家族と接したくなかったので、夕食を自室に持って行きました。
そして、何となく久しぶりにテレビでも見ようかなと思い、ザッピングしていると、とても楽しそうに笑う人が見つけ、ザッピングする手が止まりました。
その人は、当時、再ブレイクを果たしていた有吉弘行さんでした。
彼は大きく肩を揺らしながら引き笑いをするのですが、その笑い方がすごく楽しそうに笑っているように見え、僕は有吉さんの笑い方を見て、笑う練習をしました。
有吉さんはテレビに引っ張りだこだったので、毎日テレビを見ながら笑う練習をしました。練習していく内に、有吉さんのような楽しそうな笑い方が出来るようになりました。
話す方も、有吉さんが話しているのをシャドウイングの要領で後を追っかけて話していく内に、言葉がたくさん出るようになりました。
それから、約10年。
今では、普通に話して、普通に笑うことが出来ています。
ただ、10年経った今でも、傍から見たら自然に話し、自然に笑っているように見えても、自分の中では不自然な話し方、笑い方に感じることがちょくちょくあります。
やはり、2年も話さず、笑わなかったことの代償は大きいのでしょうか。
ただ、Nちゃんといる時の僕は、自然に話し、自然に笑えています。
さいごに、
今日もお仕事お疲れさま!明日から夏休みではしゃいでますね。笑
コロナもあるのであんまり出歩けませんが、のんびり過ごしましょう~
p.s.
アイキャッチ画像は、僕がベルリンにいた時に住んでいた家の近くのケバブ屋さん(ムスタファケバブ)!
ここのムスタファケバブは常に行列でしたね。
でも、Wahrschauer Strasse駅近くのムスタファケバブは同じものが売ってるのに、なぜか毎日ガラガラだったので、よくテイクアウトして、近くの公園でお喋りしながら食べてましたね。(Nちゃんとお喋り出来たのも、有吉さんのおかげ!)
よく行ってたあの公園。
今、Googleマップで調べてみたら、Boxhagener Platzっていう名前らしいです。全然知らんかった。笑