"可愛いは正義"の世界で、可愛くない自分はどう生きたら幸せなのか
"可愛いは正義"の世界で、可愛くない自分はどう生きたら幸せなのか
これは、ちょうど1年前に書こうと思っていた記事のタイトルです。
結局1文も書かないまま寝かせっぱなしになっていたのですが、思えばこの数年、わたしはずっとこの命題と向き合っていたような気がします。
”かわいいだけじゃダメですか?"なんてフレーズが大流行して、2024年も"可愛い"ってやっぱり大事なんだな…って思うことが沢山でした。
骨格診断とか顔タイプ診断とか、わたしは何をやっても基本的に全部"可愛い"とはかけ離れていて。数字やデータが出ちゃうと余計に、わたしに王道の可愛いは無理なんだな〜って悟る時が嫌でも来ます。
まあでも実際、めちゃくちゃ気が強くてクセも強いわたしが"可愛い"路線で売っていくのは元々無理なんだけど、でも可愛いことがこんなにも評価される世界で生きていくのってやっぱりちょっと疲れちゃう。わたしだって可愛い人もかっこいい人も大好きだからルッキズムはよくない!とかそういう主張の持ち主ではないんだけど、そうは言っても可愛くない自分は少なからず生きづらさを感じちゃう世界なんだよな、それが本音でした。
でもなんか最近、可愛く生きられないことにあんまり落ち込まなくなってきた。
なんでかな〜ってちょっと真剣に考えたので、自分がこの先落ち込むことがあった時のための備忘録的なノリで書き残しておこうと思います。
単純に、それどころじゃない
たぶん1番はこれに尽きる。
今のわたしはといえば、兎にも角にも忙しく生きていて。可愛い人っていいな〜なんて考えてる暇がなくなりました。
好きなものがありすぎる
まずバスケットボールが好き。ここ最近自分でプレーすることはほぼなくなってしまったけれど、女子バスケのプロリーグ"Wリーグ"が大好きで、ずーーーーっと見逃し配信見たりチームや選手のSNS追っかけたりしちゃう。
最近はカメラを持って会場に出かけてお写真撮ったりもして。でも結局ゲームに夢中になっちゃうし、肉眼しか勝たんと思っています。
カメラが好き。カメラを持って出かけることが好き。カメラを通じて知り合えた人たちのことが大好き。
春は桜、夏は海、秋は紅葉、冬は…って、この世界には素敵なものが溢れすぎてる。カメラを持つと、光が一筋差し込むだけで世界が美しく見えちゃう。
推し活が大好き。わたしの場合、推しの生息地が多分野に渡りすぎてる。アリーナにもライブハウスにもスマホの中にも推しがいて、なんなら実家の猫だって推し。
推しがいる世界って本当に尊くてありがたくて、にこにこしながら過ごせる時間が間違いなく増えます。
お仕事欲がありすぎる
ありがたいことに仕事が山ほどある。本業副業でほぼ週7働いてる。
その上まだ仕事を増やそうとしている。
いずれは会社員を卒業して、フリーで生きていきたいなとか自分の会社を持ちたいなとか思いながら過ごしています。
好きなことを仕事にするってどうしたらいいんだろう、っていうのをここしばらくずっと考えていました。好きな人、応援したいなと思った人の活動をちょっと後押しできるような働き方が自分の理想の働き方かもしれない…そんな結論に至ったわけです。どこ行っても役に立つのってきっと、マネジメントスキルとクリエイティブスキルと誠実に仕事に向き合う姿勢。あと愛嬌。そういうの全部持ってる人材になりたいな〜と日々精進しています。
やりたいことがありすぎる
1度しかない人生だから、好きなことをずーーーっとしていたい。だから好きなことを仕事にしたい。今のわたしはこれしか考えていません。
そんなの無理だよ、みんな生きるために折り合いつけて働いてるんだよ、なんて言葉があちこちから聞こえてきそうだけど、誰に何を言われたってやっぱり変えられない思想ってあるよな〜。
そんなこんなで学びたいこと、身に付けたいこと、経験してみたいことが沢山ありすぎて大変。ちゃんとお金かけて沢山努力して、興味を持ったことを1つずつちゃんと形にしていける人になりたい。
前よりなんか、自分のことが好き
数年前のわたしより、うじうじする時間が短くなってハッピーな時間が増えました。たぶん前よりずっと、自分で自分のことを肯定してあげられるようになったからかな〜と思います。
わたしを肯定してくれる人がいる
すごいよ、頑張ってるね、こういうところが好きだよって言ってもらう回数がものすごく多くなりました。なんて優しい人たちなんだ…って思えるみんなに囲まれて生きている今の環境が本当にありがたいな〜っていつも思っています。
オンラインとオフラインの両方に大好きな人たちがいて、好きな気持ちが自分からの一方通行じゃないって思える世界に生きている。これって本当にありがたい。
ライブ配信を通じて出会った人たち。画面越しが基本の繋がりなのに、リアルで会ったことない人がほとんどなのに、こんなにも心の支えになるのってどうしてなんだろう。いつも見てくれている人がいて、ふとした時にもらったリプがものすごく嬉しかったりする。
仕事で関わる人たち。本業の上司、同期、後輩、本屋の社員さんたち、同じバイト仲間の学生さんたちは、1番リアルで会っている時間が長い分わたしの色んな部分を見てくれていて、だからこそ言葉の重みがすごい。
アスリートだったり、アーティストだったり、各分野の推しさんたち。自分から会いに行かなければ絶対に会えない存在だからこそ、全然別の世界で頑張っている彼ら彼女らをわたしは全肯定するし、彼ら彼女らもわたしを全肯定してくれる。推しという存在って、一方通行のように見えてけっこう双方向通信ができるって最近気付きました。
自分にもいいとこあるって思える
がむしゃらに生きる自分、好きなことに全力投球な自分、やりたいことを山ほど持っている今の自分のことがけっこう好き。
時に恐ろしく感じるほどの行動力と実行力を持ってる自分のことがかなり好き。
それに今のわたしは昔の自分じゃ考えられないほどポジティブで、ちょっとくらい壁にぶつかったり嫌なことがあったりしてもほとんど落ち込まなくなりました。もちろんネガティブな感情はゼロじゃないけど、こんなの長い人生の中で見たらほんの一瞬のことだし、ちょっと先の自分には必要な経験なんだと思えるようになったのはものすごい成長。
今でこそこれが自分の長所です!って言えるけれど、これも全部周りの人に言われるようになって気付けたことでした。自分にとって大切な人を選び取る能力がめちゃくちゃ高いというのがわたしの最大の才能なのかもしれないな〜って思います。
やっぱりわたしも、人に好かれたい
結論、根本にあるのはたぶんこの気持ちだと思います。嫌われるより好かれたほうがいいし、自分のこと好きでいてくれる人が多いほど自己肯定感が高まるのは事実だし。自分が可愛い人を羨ましく思うのは、たぶんその人が周りに好かれてるのが目に見えて分かるからなんじゃないかなと。
物理的な可愛さを持っていなくても、人に好かれたり愛されたりすることはできる。自分で自分のことを好きでいられたらけっこう楽に生きられる。
"可愛い"は間違いなく人に好かれるために有利に働くけれど、可愛くない自分はそれに代わる何かで人に好かれることができる。目の前のことに一生懸命に生きているうちにこの考え方に辿り着けたから、"可愛い"に執着する気持ちが前ほどなくなったんだと思います。
それもこれも、がむしゃらに頑張った自分と周りにいてくれる人たちのおかげ。
ポジティブな気持ちでわたしと関わってくれてるなって感じる人が周りに沢山いて、わたしはそんなみんなのことが大好き。
ポジティブな気持ちにはポジティブでお返ししたいな〜というふんわりした決意をして、この記事はおしまいにします。ここまで読んでくれたみなさん、ありがとうございました☺︎