阪神淡路大震災後の三宮一貫楼⑤
木曜は仕事(三宮一貫楼)ネタ
↑のつづきのお話しですが、今回は少し時を戻してのお話しになります。
平成7年に起こった阪神淡路大震災で甚大な被害を受けた三宮一貫楼でしたが、当然被害を受けたのはわれわれだけではなく近隣の多くの料理店も同じでした。
中にはこれを機に長期休業や止む無く閉店という選択をされるお店も多かったように思います。
うちの先代夫婦はと言いますと、ますます血気盛んと言いますか、本店再興に向けてのエネルギーが余計に満ちていたようなところがありました。
先述しているようにプレハブ店舗までの立ち上がりも早かったですし。
その兼ね合いでか旧知や紹介でうちの先代を職を失った多くのコックさんがこの時期に訪ねてきました。
当時うちの状況を鑑みれば普通では考えられませんが、先代はそのほとんどの方を採用していきます(苦笑)
資金面を度外視すると、この時期でなければこんなに腕のいい料理人を雇うことは不可能と思えるような方もおられましたが、それにしても破天荒というか無鉄砲ですね。
そんな中、催事出店に力を入れ出したのもこの時期で、現専務である次兄を中心に梅田阪急や川西阪急などでよい結果を出していました。
その当時、川西能勢口駅前に大型商業施設が建設される話がありました。
プロジェクトの音頭を取っていたのが阪急系列のデベロッパーで、川西阪急で好調な売上を記録していた絡み(だと思っている)もあり、当店にオファーを入れて来ました。
それも120席を擁するレストランでのオファーでした。
そこは無鉄砲な先代です。一も二もなくオファーを快諾。
当時のうちにとって過分な数の職人さんがいたというのもオファーを受けた大きな一因となっています。
そして本店仮設再建から約1年の時を経て、平成8年4月開業の川西モザイクボックス内レストランフロアに三宮一貫楼川西店が誕生いたします。
川西市だけでなく近隣自治体も地域経済の活性化を期待した肝入り商業施設の開業です。
オープニングの華々しさは今でも鮮明に記憶に残っています。
当時の芦屋市長の北村春江市長や現在都知事の小池百合子知事に当時代議士だった旭道山議員などもお客様として訪問してくれていました。
それを誇りのように言っていた母も一瞬、ステージが上がったと勘違いしている節ありました(苦笑)
開店初日のテイクアウトコーナーは終日長蛇の列。レストランの客席もずっと満員御礼でレストランのウエイティングも負けずに長蛇の列をなす様は双頭の竜のようでした。
売上にして日商200万円超を記録するなど、順調なスタートを切ったかに思われた同店でしたが、そうは問屋が卸しません。
いわゆるオープン景気と呼ばれる状態は1か月もなかったと、当時の川西店店長をつとめた社長が言います。
そこに来て慣れないレストラン営業で職人さんとわれわれとの考えに相当な隔たりがあり、その時交通インフラもままならない中、神戸と川西の物理的な距離がより問題を深いものにしていました。
(つづく)