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阪神淡路大震災後の三宮一貫楼⑥

月曜は仕事(三宮一貫楼)ネタ

↑のつづきです。
このシリーズ⑥にもなってたんですね(笑)

当初は記録的な忙しさだった三宮一貫楼川西店ですが、うちの出店史上最悪のものと認識するには開店後3か月とかかりませんでした。

そうなったのは、前回の後半部で触れさせていただいた理由が二つ。

一つは職人さんとわれわれの考えの違い。

もう一つは神戸との物理的距離による管理の不全です。

しかし、それ以上に深刻だったのは施設の集客力が脆弱で売上が急激に下がったことでした。

売上が当初のように上がっていれば、やることはシンプルなので多少の意見の相違があってもお店の方向性が大きくズレることはありません。

この川西店においては職人さん、ホールマネージャー、経営陣の間で意見がぴったり合うということは、撤退の日まで皆無と言っても過言ではありませんでした。

当初、日商200万円超を誇った売上は撤退間際にはピークの10%である20万円すら上がることはなく、その主要因としてモザイクボックスには駅前商業施設として重大かつ致命的な欠陥がありました。

阪急川西能勢口駅から直線距離にして約100mの超駅近物件にも関わらず、駅直結の通路が地下はおろか地上にもありませんでした。
(当店の撤退後に2階に渡り通路が建設)

消費者導線がめちゃくちゃ重要と言うことはこの事例を通して心から学ばせていただきました。

その駅前に敵がいなければ、それも大きな問題ではなかったのですが、駅直結の商業施設がほかに二つあり、その一つが当社を見初めた川西阪急だったというのは皮肉以外なに者でもありません(苦笑)

4月オープンだった川西店、GW終了までがオープン景気と呼ばれるもので、それ以後の売上はきれいな右肩下がりの様相でした。

それまでは母や姉など神戸からエース級のサービス陣が川西店を支えていました。

売上が落ち着いてくると本拠をそうそう空けられないという理由もあり、オープンを支えたメンバーが順次神戸に戻っていきます。

現社長の長兄が店長として現場に残りますが、当時29歳の社長には非常に重たい課題だったと思います。(社長自身、地獄の日々だったと振り返っております)

今なら多少理解は出来ることがあります。

職人さんと言われる人たちはボスに忠誠を誓う方が大半を占めます。

よって先代の言うことには聞く耳を持つのですが、その息子、ましてや20代の自分より仕事のできない人間の言うことなど聞くはずもありません。

その上、うちの先代は

このような方針なので、わざわざ交通事情の悪い川西まで行くという考えはまったくありません。

更に川西店の契約は、建設の際にデベロッパー側のコスト負担が大きく、ランニングコストの家賃があらかじめ高い設定になっていました。

加えて良い職人というものは給料が高額というのは相場が決まっています。

料理長クラスを2~3人抱えていた川西店の人件費がさらに固定費の高額化に拍車をかけていました。

開店半年を迎える頃には単月で100万単位の赤字を抱える超不良債権となっており、記録ではオープンから1年4か月後の平成9年8月撤退となっているので、平成9年早々には撤退意思を施設側に伝えていると推測されます。

私の入社が平成9年4月なので、本当に一番しんどい時期だったということを再確認(笑)

ちなみに撤退後は居抜きでのテナント募集でした。

中途での契約解除だったので違約金が発生します。

施設から請求された違約金はテナント決定までの月額固定家賃(約130万円)、こちらは結構すんなり後継テナント誘致が決まったので、2回のお支払いだけで済みました。

ただ厨房設備を7年リースで契約していたので、このあと6年弱、空リース(月額約13万円)を支払い続けることになります。

経営がまともな時期であれば「勉強代が少々高くついた」と割り切れますが、撤退の決断がもう少し後にズレていれば倒産しかねない事例もなんとか乗り越えることが出来ました。

今となっても思い出したら背筋が寒くなるような撤退劇をお届けいたしました。

次回は神戸方面にまたお話を戻します。

(つづく)









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