見出し画像

大好きな街、高円寺。理由はわからない。

こんばんは、こんばんは。

今日は大好きな街、高円寺について語ります。しかしたいして語りません。何故なら語彙力ないから。

でも、許してくれるんです。高円寺は。

あ、自分の常識を世の中の常識と思いたくないので付け加えると、高円寺とは東京都杉並区にある街のことです。

どんな街ですか?高円寺って。

改めて皆さんに伺います(そもそも読者なんていないこのnoteに、この呼びかけは有効なのか)、高円寺という街にどんなイメージがありますか?

そんな問いへのコタエ、聞きたくもないし、聞く気もありません。ごめんなさい。

なぜなら、好きだからです。

高円寺を好きなうえでパブリックイメージを把握する必要もあるかと思いますが、でも必要ありません。

なぜなら、わたしは高円寺の長じゃないからです。ただ、ただ、高円寺に生かされてるイチ一般市民なだけだからです。

個性的な人が多い
変わり者が多い
古着屋が多い
っぽいねぇ

こんなイメージはわたしには関係ありません。特に4つめ。「●●さんぽいねぇ」、一番いらないです。

わたしが高円寺を好きな理由。それは、なんとなくです。

元々、学生時代から高円寺にはちょこちょこ遊びに来てました。でも馴染みがある、ってほどではありません。

画像1

それでも、好きな理由。

なんか、高円寺って、受け入れる力と見過ごす力がある気がするんです。「力」というか、スキルとかセンスといった方が近いかもしれません。

勝手な分析、他オシャレ系タウンとのちがい。

先に挙げたパブリックイメージの、古着や変わり者が多い的なイメージ。それだけを聞くと、東京には他にもそんな街はたくさんある。

それらと高円寺のちがいは、内野でできてるのか、外野でできてるのか、だと思ってます。

例えばよくある都内のオシャレ系タウンだと、住民というより観光客や周りからやってきた、=外野の人たちで成り立ってる印象だ。

対して、高円寺は、そこに住んでる人たちで成り立ってるところが大きいと思ってる。

だからなのか、変わり者がいようが、誰も張り合わない。個々。己は己。

都心によくある他人への無関心、とはまたちょっと異なる、受け入れる、、、というか麻痺してる?なんかちょっと違う気もするけど、麻痺してるんです。

いや、ちがう。麻痺じゃない、無関心なんです(結局戻ってる)

画像2

受け入れる懐と、他人事な無関心。

なんだろうなぁ、高円寺って、心地のよい無関心さなんですよ。すっごい感覚的な話なんですけど

「わたしはわたし、あなたはあなた」
じゃなくて
「俺は俺で楽しんでるから、お前も好きにやりなよ」

このちがい、と言えばいいのか。

他にも的を得られるセツメイがあるかもしれないけど、ちょっともういいか。

この小見出しも

受け入れる無関心
受け入れる優しさ

色々と表現迷いました。

画像3

変わり者?それとも面白い奴?

大好きな後輩とお喋りしてるとき、彼女はふと、言ったんです。

「変わり者だね、って言われると哀しいですよね。面白いね、って言われると受け入れられてる気がして嬉しいですよね」

これ、すごく頷いた一件でとても覚えてるんですよね。

変わり者、は自分と違う奴。部外者。
面白い奴、は興味がある奴。仲間。

こんなニュアンス。

この身内感が、高円寺にも感じるんです。みんな、ちょうどよく、バランスよく、無視してくれるんですよね。

無視というより、放っといてくれる。見守ってくれる、とまでは言いません。あくまでも、放っといてくれるんです。

これからも永遠の片想い、高円寺。

そんな、オカン歴●●年以上のような高円寺。

両想いとは到底思えなくて、ただただ、こちらが高円寺の懐の深さと丁度いいサッパリ感、自立性に甘えてる、というか。

不完全燃焼だな、高円寺を語るには。足りない、わたしの知見と語彙力が。

これからも高円寺で自由に、そして自由ゆえの責任の重さも感じながら、楽しく毎日を過ごしたいと思います。

✳︎写真はすべて写ルンです、です

この記事が参加している募集