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散歩編〜文京台東荒川あたり

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文京区、台東区、荒川区の境目あたりの寺社仏閣や史跡などなど。 写真は撮影年月日ばらばらですが、なるべく新しいものを掲載しています。
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#上野公園

上野公園「東照宮の紫陽花」

上野公園「東照宮の紫陽花」

東照宮の参道の両脇にいろいろな品種の紫陽花が植えられていることをご存知だろうか。いまはまだ若い木に見えるが、いずれ名所になるといいなと思う。

シャムロック

大島緑花

潤水

ダンシングスノー

ありがとう

さざ波

こんぺいとう

三宅トキワ

ダンスパーティー

古代紫

八丈千鳥

ギャラクシー

上野公園「東叡山寛永寺 開山堂(両大師)」

上野公園「東叡山寛永寺 開山堂(両大師)」



上野公園、東叡山輪王寺。輪王寺はもと寛永寺の伽藍の一部で、開山堂または慈眼堂と称されていた。東叡山の開山である慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正と、天海僧正が尊崇していた慈惠大師良源大僧正もお祀りしているところから、一般に〝両大師〟と呼ばれている。

縁起1644(正保元年)創建
1654(承応3年)後水尾天皇第3皇子の守澄法親王が寛永寺の第3代貫主となり日光山主を兼任した
1655(明暦元年

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上野公園「五條天神社」

上野公園「五條天神社」



上野公園内、五條天神社。医薬祖神を主神とするが、天満宮でもある。

祭神主祭神は大己貴命(おおなむじのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
相殿神は菅原道真公。

縁起第十二代景行天皇の時代、日本武尊が東征のおりに大己貴命と少彦名命を上野忍が岡に祀ったものとされる。寛永寺の拡張などで社地は何度か移転している
〜江戸時代初期 天神山上(現在の上野公園内摺鉢山上、清水観音堂のあたり)
その後

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上野公園「花園稲荷神社」

上野公園「花園稲荷神社」



上野公園内にある花園稲荷神社。

祭神倉稲魂命(うがのみたまのみこと、別名豊受姫命(とようけひめのみこと))

縁起1654(承応3年)に天海の弟子晃海により再興されたとされる。
創建年代については不詳であるが、五條天神社が移転してくる以前からこの地にあった神社である。一説に空海が東寺の門前に建てた稲荷山を太田道灌が勧請したとも、天海が勧請したとも、のちに木食浄雲により再興されたとも伝えられる

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上野公園「東叡山寛永寺 清水観音堂」

上野公園「東叡山寛永寺 清水観音堂」



上野公園内、東叡山寛永寺清水観音堂。東叡山が比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立したが、清水観音堂は京都の清水寺を見立てたお堂である。清水観音堂は、京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなんで清水寺と同じ舞台作り。

縁起開山:慈眼大師天海大僧正(1536~1643)

1631(寛永8年)当初は上野公園内の「摺鉢山」に建立

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上野桜木「東叡山寛永寺 浄明院」

上野桜木「東叡山寛永寺 浄明院」



上野桜木、言問通り沿い寛永寺の桜並木のはじまりにある天台宗浄名院。「へちま寺」と呼ばれている。境内には、江戸六地蔵六番がある。

縁起開基:圭海大僧都
1666(寛文6年)創建
寛永寺三十六坊のひとつとして、四代将軍徳川家綱の母・宝樹院の菩堤所となり浄円院と称した
1823(享保8年)安楽律院となり妙立大和尚の孫弟子玄門大和尚を第一世として浄名院と改称
やがて輪王寺宮の支持を得て御朱印二百石を

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上野桜木「東叡山寛永寺 根本中堂」

上野桜木「東叡山寛永寺 根本中堂」



上野桜木、天台宗別格大本山・東叡山寛永寺。寛永2(1625)年に、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師天海大僧正によって建立される。後には第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになった。また東叡山主を皇室から迎えた(輪王寺宮)ことで、江戸随一の大寺院となった。
幕末の上野戦争以降、敷地の大部分が上野公園となった。

旧本堂は現在の国立博物館前の噴水

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上野公園「東叡山護国院」

上野公園「東叡山護国院」



上野公園、清水坂上にある天台宗東叡山護国院(護國院)。東叡山寛永寺の子院。草創期の東叡山においては第一の大建築物であり、その後元禄に根本中堂が完成するまでの間、東叡山の総本堂の役割を果していた。
釈迦堂にて大坂城落城25年の大念佛法要が執り行われ、この功績を称えて三代将軍家光公より大黒天の画像が寄贈され、「護國院大黒天」として谷中七福神のひとつとなった。

開基:生順

1625(寛永2年)東

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