常識の概念って、どこから?
「常識」。
誰かにとってのそれは、「週に5日、会社に出社すること」かもしれない。
また、他の誰かにとっては「困っている人には、手を差し伸べること」かもしれない。
場所によっても、人によってもいろんな視点があるだろう「常識」。
これまでどこかに所属しようとしなかった私には、
その言葉の概念がいまひとつ分からない。
分からないなりに、辞書で「常識とは?」と、検索する。
するとこんな答えが返ってきた。
この言葉を見たとき、私は「もしかすると一般の社会人ではないのかもしれない」と思った。それと同時に、「一般って一体誰が決めたものなのだろう」と、疑問を抱いた。
***
私の中で、常識という概念がわからない理由。
それは飽き性だった私が、よそ見をしては、寄り道をして、さまざまな人にとっての常識を、目にしてきたからなのかもしれない。
今回は、そんな私の経験を含め、常識というその言葉について考えてみる。
「大学インカレサークル」での常識
遡ること8年前。
四年生の大学に通った私は、憧れの学外インカレサークルに所属した。そこで繰り広げられていたのは、いわゆる「大学生飲み」。
飲みの席。ゲームで負けた人が飲む。そしてゲームが再開する。
そんなエンドレスの時間。バカみたいにはしゃいだ記憶が未だに残っている。
このサークル内での常識は、「ゲームに負ける=お酒を飲む」というサイクル。ただし、それが他の組織での常識かというと、そんなことはない気がする。
「タイの山岳地帯」での常識
大学生活を折り返すころから、旅に目覚めた。
タイの山岳地帯で少数民族と過ごした日々では、お風呂という概念も、トイレという概念もなかった。
汗をかいたら川に入る。トイレに行きたければ山に入る。
食事も山で摘んだ、山菜鍋。
ここでは全てが自然派スタイル。
日本では考えられないが、その土地では常識なこと。
その土地の常識を味わうことで、現地の人との距離が近くなれた気がして
嬉しくもあった。
「新卒大手会社」での常識
新卒で入社した、大手建築会社。
罵声を浴びたことも、頭を下げたことも、泣き続けたこともあった。
けれど、社員のみんなには、守るべき家族がいた。
経営者は経営者で、必死で従業員に賃金を払うために、利益を追い求める。
この会社では、家族や会社へ尽くすことこそが、常識だったのかもしれない。その考え方に対しては、賛成や批判という物の見方はなく。
その人たちには、その人たちなりの正義があったのだと感じている。
常識とは、結局部分的な指標である。
ここまで挙げてきた、私の経験について考えたとき。
その組織には、その組織なりの常識がある。
そして、その常識というものは、他の組織ではまったく通用しないことである可能性がある。
「常識」。
それについて考えたとき、一般的な常識という判断が私にはあまり明確に分からない。
それでも、私はどんな人が持っている常識という概念も、肯定したい。
あなたはあなたなりの正義があっていいじゃない。
そこにはそもそも、賛成も、批判もないように思う。