G02-江侍聞伝録と近江の歴史と光秀
前回
『江侍聞伝録』の研究
1973年(昭和48年) 滋賀県立図書館司書 石川正知氏が、『滋賀県地方史研究紀要』第一号(上)・第二号(下)で『江侍聞伝録』全文を活字化されています。50年近く前です。
その後、
1976年(昭和51年)、つまり3年後に『近江史料シリーズ [54]』 滋賀県地方史研究家連絡会編 に 同じ石川氏が『淡海温故録について』と題し書かれている中で、『江侍聞伝録』についても解説されています。
まず、1973年『滋賀県地方史研究紀要』のには『江侍聞伝録』の釈文の前文から。
「江侍聞伝録」という写本は滋賀県立図書館に所蔵されているも ので、滋賀県の郷士をその土地や伝説などをまじえて列記してあるが、史料としては信頼できるものとは言い難い。しかし、寛文十二年(1672年)というから江戸幕府が開かれてわずか七十年、戦国時代のことが ようやく忘れ去られようとする時期のものとして興味がある。また、 この頃は偽書として有名な「江源武鑑」が書かれている。これとの 関係なども検討してみるのも面白い。 木村重要という人はどんな人物か今のところわからないが、内容 を見ると湖東・湖北がくわしいので、おそらく彦根藩あたりの人で はないだろうか。
この写本は誤字も多いが、幸いあとで朱を入れた人がいて比較的 続み易くなっている。また、行間や欄外に書き入れも多いので、頭註をつけることにした。朱書きのものは※印をつけてある。文字は 原文に近いものにしたが、今の活字にして意味のかわらぬものはそ の字を採用してある。不充分な点も少くないが、あえて掲載するこ とにした。
・史料としては信頼できるものとは言い難い。
・この頃は偽書として有名な「江源武鑑」が書かれている
・木村重要という人はどんな人物か今のところわからない
・幸いあとで朱を入れた人がいて比較的 続み易くなっている
とあり、あとがきには「労多い割には、中身がそれほどでもないように思う」と、散々ではありますが、3年後には次のような評価になっています。
1976年(昭和51年)、『近江史料シリーズ [54]』
「江侍聞伝録」という写本も、郡分けにはなっていないが、近江の 地侍のことを中心に書かれた、「淡海温故録」と同じ内容のもので ある。これには、「寛文壬子(十二年)仲秋集書之木村重要誌」 とあって、貞享から十二、三年前である。私の推定では、
・寛文十二年(1672年)に書かれた「江侍聞伝」を整理加筆して、
・貞享年間(1684年~1688年)に「淡海温故録」として一応完成させて、井伊公に献上したものと考える。
し たがって、木村重要と江州白頭翁とは同一人と思う。
と、「江侍聞伝録」を元に「淡海温故録」がまとめられ、ほぼ一緒の内容と書いてありますが、佐目と光秀の所は少し違うので検証が必要ですが、今は保留します。
「淡海温故録」の内容については、読んで頂ければわかるように 近江が佐々木氏の支配にあった中世の土豪、地頭について記録や伝聞にもとづいてまとめたもので、社寺についての記述もあるが不充分である。
屋形といわれる佐々木六角氏との関係を中心に記述がされ、筆写の不正確さもあって統一されてはいないが、屋形という言葉が出てくるときはその前を一字あけるなどの敬意を示す書き方を している。天皇はもちろん御当家(徳川家)のところでも、このような書き方はしていないのをみれば、編者と佐々木六角家との深い 関係を思わせる。この点から、屋形と関係の深い武将についての記述は詳しく、信頼性も高いが、それ以外には、首をかしげる記述も少くない。
また、一般に偽書とされている「浅井三代記」や「大系図」などからの引用もあり、さらに、筆写のときの誤りや付け足しもあって、史料としては当然吟味して使われなければならない。しかし、近江の中世武士の研究には少くない示唆を与えてくれる。また、それぞれの土地にちなんだ伝承も多くとり入れられているので、 民俗研究の上でも役立つことがあるように思う。
とあります。
歴史というのは、時代を経て、新しい資料が発見される事により、過去の評価は変わってきます。たった3年でも、少し変化している事がわかると思います。
・史料としては信頼できない → 屋形と関係の深い武将についての記述は詳しく、信頼性も高い
・この頃は偽書として有名な「江源武鑑」が書かれている。
→ 一般に偽書とされている「浅井三代記」や「大系図」などからの引用もあり、吟味して使われなければならないが、近江の中世武士の研究には少くない示唆を与えてくれ、民俗研究の上でも役立つ
と変化しています。『江源武鑑』が消え、代わりに「大系図」というのが出てきます。たぶん、これは「佐々木大系図」の事で、六角氏の嫡流問題の事をさしています。『江源武鑑』や『淡海温故録』が偽書なのではなく、「大系図」の影響を受けている部分を吟味するようにとの事だと思います。
しかし、石川氏がこの文を書かれてから50年。更に、研究が進み、偽書扱いされた「大系図」も見直され、ウソじゃなかったんじゃないという証拠も出始めていますので、もう一度、近江の歴史は洗い直されるべき時期にきているように感じます。
・木村重要という人はどんな人物か今のところわからない
・幸いあとで朱を入れた人がいて比較的 続み易くなっている
等々、気になる事もありますが、『江侍聞伝録』の中身を見てみようと思います。
まず、こちらを
1.江侍聞伝録の「まえがき」にあたる部分
永録頃(1558-1572)江州石寺に判の兵庫と云者有
甲州に下り武田に属す 甲陽軍(1575~1577-1586)に有
信玄公日 此星何之吉凶哉勘ヨト也
兵庫云 是当 時急ニ何レ共指当ルメナシ悲哉
一切万事昔ヨ リ伝来古シツ悉皆断絶シ
人毎二古風トテ嫌捨 今ヤウトテ新数事ヲ用誉世トナル其始リト申上候
武家モ古キ高名系図有家で民間二下ルト云
吾家モ安部清明ガ末流ヲ次キ占方ヲ勘来トモ
子孫ハ此職ヲ断スト云テ 商人トナスト此事 ヲ念コロニ
軍鑑二高坂書載ラレタリ世ニタ何レニ多トイエトモ
是ホド合タル事ハナシ
永禄ヨリ天正マデ間(1558-1592)十ニ八九二
古キ家々江州侍皆以テ 或ハ断 或民間下リタマタマ有モ
系図ヲ失忘シナキカコトシ 其兵庫子孫甲州府二商人ト成シタルハ
爾今繁昌シアリ 江州ニ残シ置タル嫡男家ヲ断シ者ハ
石寺ヲ退キ栗本郡 勝部ノ里二三代アサマシキ程ニテ有リケルガ
近キ寛文年(1661年~1673年)中二断絶シ今ハナシ不思議之事ニ思今爰二顕ス
1973~1974年 ---
2.『江侍聞伝録』の著者の思い
『江侍聞伝録』の著者、木村重要は、江州侍の古き家々が、十に八九(大部分)が断絶したり、たまたま残っていても家系図を失っている事を 憂い、危惧し、この資料を作ったと思われます。
3.武田信玄に仕えた近江石寺陰陽師「判ノ兵庫」
六角氏の家臣団が住んでいた観音寺城(繖山・佐々木山)南麓の石寺出身で武田信玄に仕えた「判ノ兵庫」(安倍晴明末流の陰陽師)の話が 、近江守護六角氏よりも先に、「はじめに」とか「まえがき」という感じで一番最初に書いてあり、判ノ兵庫の占いが自身の家や六角家の衰退も言い当て、かつ、木村重要が聞いている自分の家の伝承と同じ事から、「判ノ兵庫」と『江侍聞伝録』の著者「木村重要」とは、何らかの関係がある事を示唆していて、その本家が寛文年(1661年~1673年)中に断絶したとあります。
『甲陽軍鑑』高坂書に書いてある、とあるので、もしかしたら、これを読んで、自分のご先祖探しをした事がきっかけで、近江の武士の歴史を書き残そうとしたのかもしれません。なので、後に出来た地誌のような体裁が整っていないのは当たり前ですよね。
「甲陽軍鑑 の品 第 八 判 の 兵庫 星 占い の こと 」
永禄 12年(1569) より 翌年7月 まで、 天空に煙の出る星、 彗星が 出現 した。 信玄公 31歳の時から召し抱えている近江の石寺の博士で、安倍晴明の流れをくむ、易者がいた。 花押 や 印判 などの 印 を よく 占っ た ので、判の兵庫と名乗っていた。
--- 佐藤正英. 甲陽軍鑑 (ちくま学芸文庫) ---
この「判の兵庫」が、近江を離れた時期がとても大切で、武田信玄の年齢から逆算すると1552年。六角高頼の長男氏網が若くして亡くなり、息子の義実がまだ8才だった為、氏網の弟、定頼がリリーフで登板し、亡くなった年です。本来ならば 宗家嫡流、氏郷の子孫に戻るはずが、定頼の息子義賢(承禎)が跡を継いだ年です。
1570年、信玄からの使いに、彗星(何か月も続いたので○○流星群かな)の吉凶をきかれて(ざっくりですが)「これは天下怪異の星ですから,先の世では旧家が滅亡するなど世の中が一変します。判占いも私の代で終わりにしたいものです」とのべ、その後、占いは子孫に継がせず、子孫は甲斐に残し、自分は近江に帰ってきて、五年後に亡くなったと『甲陽軍鑑』にはあります。
兵庫(助)というのは、佐々木家の祖先、平安時代の経方(つねかた)の官位でもあります。木村氏は佐々木氏からわかれています。
木村重要は、自分の所も安倍晴明の末流である事から、先祖を同じくするであろう判の兵庫と木村重要の本家嫡流筋は、石寺から栗本郡(守山)勝部に引っ越して、2~3代暮らし、寛文年(1661年~1673年)中に断絶したとあり、
『江侍聞伝録』は、そんな時期 寛文十二年(1672年)に書かれています。
残さねば、伝えなくてはという思いが伝わります。
4. 光秀が近江・美濃を離れ、越前に向かった理由
くしくも、「判の兵庫」が近江を離れた1552年。
その6月、美濃の明智家に内紛がおこり、明智宗家・定明が弟・定衡に殺され、幼い愛菊丸(定政)は一族とともに家臣に護衛されて、外祖父の菅沼定広を頼って落ち延び、ここに美濃明智家は滅びた事となるそうです。
そして、もう一人、元々、明智宗家でありながら義絶され、近江・佐目にやってきた祖父か父を持つ光秀が、貴重な跡継ぎの一人となり、追われる立場になった年とも言えるかもしれません。
六角定頼の娘を正室に持つ美濃の守護・土岐 頼芸が斎藤道三に追い出された年でもあり、土岐 頼芸は、一旦 六角氏を頼っていますが、すぐに他所に移動しています。
その近江では、六角高頼が存命のうちに亡くなってしまった嫡男氏頼の代りにピンチヒッターとなり長く近江を治めてきた弟・定頼が亡くなり、本来は嫡男氏頼の息子か孫に戻されるはずが、定頼の息子・義賢(承禎)に当主が引き継がれてしまいました。六角家臣に、不満を持った人が少なくない事は想像に難くありません。
佐目からは、明智光秀が暫くこの地に隠れ住んでいて、それを守った「見津五人衆」の伝承を昭和に書き残した資料が見つかりました。
近江佐目と美濃は、隣りあって、昔から助け合ったり戦ったりと、行き来があります。佐目から美濃南濃町に分社された十二相神社は、出城に使われていたという話もあり、その神社は、後、昔の旧き好みにて、山崎の合戦で光秀方についた近江六角家臣の小川氏が建替えなどを行っていますので、光秀が佐目から美濃の戦いに行く事はたやすい位置にあります。美濃に住んでいなくても佐目に拠点を置きながらの美濃参戦も可能という事になります。
六角高頼が明智家を佐目に置いたという事は、明智家には任務があったという事で、美濃にも帰れず、土岐氏へも冷たい態度の六角の新しい当主。
もう一つ、明智家は元々幕府の奉公衆でもあり、室町幕府と深いつながりのある六角氏に関わっている事に利点があったはずだけれど、近江も不本意なトップになってしまった。
そこで、判の兵庫が、甲斐の武田信玄の所に行ったように、光秀が美濃と近江に見切りをつけ、幕府とつながりがある越前朝倉に行くきっかけは、このあたりにあるのではないでしょうか。妄想ですけど(笑)
5. 光秀と武田信玄と多賀坊人
ここは大切な所で、武田信玄と 明智光秀と 近江の関係は、光秀の出身説だけでなく、本能寺の変にも関わってくるからです。
『江侍聞伝録』の後、貞享年間(1684年~1688年)に同じ作者により加筆修正された『淡海温故録』に、
「(光秀は)逆意はなかったけれど、不慮の思いが立ちて、甲斐国武田を語らって陰謀を図っているうちに武田勝頼が滅亡してしまった為、存念が相違してしまったと『甲陽軍鑑 』にも書いてある』
と、やや不自然と思える位にぶち込んであり、聞いた事がなかった説なのと、『甲陽軍鑑 』にも と書いてあり気になっていました。
多賀大社には、信玄の25才厄年祈願の文書があります。この文書の存在で、信玄の生年がわかったという貴重な古文書だと、当時の宮司に教えて頂きました。多賀坊人が動いている事は、明らかです。
そして、明智家を佐目に配置し扶助していた六角高頼は、多賀大社に不動院を建てさせ、甲賀の修験者を多賀坊人として活動させ人です。
その坊人が、信玄と近江、そして光秀を結ぶ役目をしていたのだろうと考えていました。多賀大社不動院は、将軍家・公家、当たり前ですが、吉田神社の吉田兼見とのつながりもあり、坊人は諜報活動もしていたと伝わっているからです。
そして、この『江侍聞伝録』の 一等最初に書いてある事柄から、
・もう一人、「判の兵庫」という甲斐・武田側に 近江とつなぐ人がいた事
・しかも、多賀坊人と同じ、神社関係者
多賀坊人が曲者なのは、それぞれの檀那(お客様)の為に動く所なんですけど、殆どが、忍者で有名な甲賀に住みながらの活動でした。(私の母方は、その子孫になります)
6.六角氏の氏神 沙沙貴神社 神官家 木村氏
まずは、『江侍聞伝録』を書いた「木村重要」とは何者ぞという事で、『江侍聞伝録』の木村氏の所を見てみます。
木村行定嫡流源五成綱是 木村二居城ス
其後 佐々貴神官トシテ佐々木之庄二住ス
定道ヨリ実冬二至マテニ十余代神職ヲ守護シ
実冬息三人有子 細有テ自害シ
末子源四郎家綱壱人残テ伊崎山二流人トシテ
子孫新開二下洛シ蟄居ス
--- 翻刻)「滋賀県地方史研究紀要 第2号~第3号」 滋賀県地方史研究家連絡会編 滋賀県立図書館 1973~1974年 石川正知 ---
江州白頭翁は
・寛文十二年(1672年)に「江侍聞伝録」
・貞享年間(1684年~1688年)に「淡海温故録」
を書いています。
そして、ニ十余代神職を守護した佐々貴神官家の末子源四郎家綱
新開村 木村源四郎が 『江侍聞伝録』に登場します。
この木村源四郎が
・1724年 『近江志新開略記』を 重要、もしくは、当家に残る資料を元に書いているそうです。こちらが、神官家 木村氏の嫡流のようですね。
・新開村は、現在の彦根市新海にあたり、佐々木一族の末孫が永禄から 天正(1558年~1592年)にかけて多く移り住んでいるそうです。
当初、木村重要の子孫が、木村源四郎なのかと思っていたのですが、これは、まだ、不明と言わざるを得ません。
『淡海温故録』も、光秀関係の所しか読んでいなかったので、『近江志新開略記』を探すと共に、もう一度、読んでみようと思います。
7.『江侍聞伝録』が封印された訳け
『江侍聞伝録』の「まえがき」の後は、もちろん、近江守護大名の六角氏から始まっています。
トップ(嫡流・本家筋)には「尾形」とつけられています。
御屋形六角四郎高頼公 氏網公 義実公 義秀公 如此までは
御代目出度 佐々木山・観音寺城に存し、
永禄年中(1558-1570)に義郷公 氏郷公 佐々木山を退く
と、偽書とされてきた『江源武鑑』と同じであった為、抹殺されてきたのではないかと思われます。通説では「義実 義秀 義郷」は、氏郷=沢田源内が作り出した架空の人物とされてきました。続いて、尾形とつけないで、
高頼公 定頼公 義賢公 義弼公 迄は代々佐木山在けれ共 御末は国を退き賜て落世也
と、二つの流れがちゃんと書いています。
簡単な話で、例えると「六角本家の跡継ぎの系譜と 株式会社六角の社長の系譜」があった訳で、「六角の子孫はうちだ! あいつらは、ウソつきだ!」と株式会社六角の子孫が言い出し、六角本家の跡継ぎだという「六角氏郷」はありえないという事になってしまったみたいです。
時がたち、色々な資料が出てくると「おかしいんじゃないの?」と思う人が現れて、ずいぶん研究が進んできているようです。
「沢田源内=佐々木氏郷」ではない事、二人とも『江源武鑑』を書いていない事。そもそも、沢田源内が書いたと証明できる偽書は見つかっていないそうです。本当に、沢田源内という人は、いたのかなと 最近、私は疑っています(笑)
8. 六角氏のもめごとに、細川藤孝 出陣!
『江侍聞伝録』には、朱色で添削したり、欄外(青い点線部分)に、追加情報が書いてあるのですが、この部分は、筆跡から、この文書を書いた、もしくは写した人が書き加えたもので、結構面白いです。他の朱書きの中には、筆者と少し違う気がするものもあるので、これが氏郷(沢田源内にあらず)だったりすると、更に面白いのにと思っていますが(笑)
中和之祝に 藤孝
こげつ良し 津田の入江も 打とけて 国も豊かに 春風そふく
永禄五壬戌(1562年)二廿(?虫食い)五日
屋形義秀公と承禎禎公と不和を細川兵部大輔義(藤)孝為上使中和し玉ふ
- 1973年(昭和48年)『滋賀県地方史研究紀要』石川正知 -
「六角本家の跡継ぎ 宗家氏網の孫・義秀と ピンチヒッター定頼の息子・義賢(承禎)」がもめているのを、なんと 将軍家から使わされて 細川藤孝が仲裁に入って、うまく行ったので 歌まで詠んでいます。
が、日にちがイマイチわからないので調べてみたら、『江源武鑑』に更に詳しい内容が書いてありました。日時は、永禄5年(壬戌)(1562年)3月23日。
細川藤孝の方に、同じ内容の出来事が残っていれば、正しいと証明できるのですが、見つかりませんでした。残念。
とは言うものの、この内容がとても面白い。ウソを書くにしては、手が込みすぎていて、あまっさえ、ウソが混じっていたとしても、六角本家の思いが伝わってきます。
和解したはずが、残念ながら、永禄6年(1563年)10月 義賢(承禎)の息子、義弼(義治)が六角重鎮の後藤親子を建部日向守等に命じて殺害させました。たぶん、この建部氏の子孫が150年後に六角本家の跡継なんていないと、言った人ではないかと思われます。
『江源武鑑』には、義弼(義治)からつづく子孫や、その家臣の子孫にとっては、読んでほしくない内容が書いています。そこに書いてある事が本当か嘘かにかかわらず、必死で、抹殺しようとしたのもわかります。
どんな喧嘩も、双方の言い分を聞かないとわかりません。
と、いう事で、エイ! こちらに、翻訳して頂いています。
全てが、嘘というには、リアルすぎ。。。
藤孝の部分
永禄5年(壬戌)(1562年)3月23日
二十三日 将軍家から細川兵部大輔藤孝が江州に下され、後見承禎父子と屋形は和解するようにとの上意を述べる。屋形は藤孝に対して、我が家中に不和などない、したがって和解するようなことはないと仰せになる。藤孝はそれに答えて、近年後藤、浅井等の御家人がややもすれば承禎公父子を討とうとしていることは京都までも聞こえている、このため将軍家は国の乱れを鎮めるようにと仰せになったのである、将軍家の上意であれば承禎父子を当城へ召し寄せて和解するべきであると申す。屋形は、将軍家が強いてそのように仰せになるのであればそれに応じようと仰せになり、すぐに箕作城へ平井加賀守を遣わして承禎父子を呼び寄せる。承禎公父子は郎従四百余騎を率いて観音寺城に出仕し、後藤、浅井が大手門に出迎えて同道する。上使細川藤孝は将軍家の仰せを承禎父子に語って聞かせ、管領と承禎父子の和解を実現する。承禎は上使細川藤孝に向かって、吾には毛頭下心などないのはこの通りであると一通の起請文を書いて渡す。上使藤孝はこのように和解が成った上はと御盃を請い万歳を祝す。藤孝は、吾は不肖の身であるが重大な御使として罷り越してこのように首尾がうまくいくことは何事にも勝る喜びであると申して一首を詠む。
こほりいし津田の入江も打とけて国もゆたかに春風そ吹
屋形は非常に喜ばれ、藤孝に龍雲という名馬を贈られる。旗頭の間でも近年は何の根拠もない噂が多く、今にも管領が箕作城へ攻め寄せるとか、後藤、浅井が承禎を攻めるなどと申して兄弟の間ですらこの人は管領の味方である、あの人は後見承禎方であるというふうに互いに心を隔てていたが、将軍家の下知により今本心から和解することはめでたい事である。これより屋形も承禎父子を愛され、承禎公も二心など無いかのように毎日観音寺城へ出仕する。
http://www6.plala.or.jp/gousyuu/index.html 江州侍さんのサイトより
ありがたいなぁ。
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