期待した子の死
才能も自己肯定感も人並み程度の自分に、がっかりしたり、あきれたりしながらも、なんとか折り合いをつけて暮らしてきました
そんなある日、自分の子供が凸凹さんだという事実を突きつけられました
まずは、事実を受け止められなくて、診断を否定
そして、たくさんの葛藤を経て、事実を事実として受け容れるフェーズへと向かいます
この過程を、松永医師は
親にとって子供の障害を受け入れるということは、言い換えれば「期待した子供の死を受け入れること」と同じなのだ
と表現されました
自分の子供が凸凹さんと知ってから、ずっと堂々巡りしていた、暗くて重苦しい感情と、自分の置かれている状況に名前をつけてもらった気がしました
名前がついたからといって、状況が変わるわけではありません
子供の凸凹も治らなければ、自分が神対応できる親になれるわけでもない
けれど、子供が凸凹さんだと知らされて、なぜこんなにもショックを受けたのか、その理由がわかったことで、少し冷静になれた自分がいました
病気になって一番つらいのは、病名も、原因も、治療法もわからない時期
いつまでこの状況が続くのか、この先どうなっていくのか、どうしたらこの状況から抜け出せるのか
病名がついたことで、どんな治療法があるのかを探すことができるようになりました
子供に対して、過剰な期待は抱いていないつもりでいました
でも、自分が産んだ子供は、「自分以上の何かを成し遂げる人間にはなれなくても、自分がやってきたことと同じくらいのことは、普通に生きてくれさえすればできるはずだ」と、思い込んでいたらしいのです
そして、それが叶わない(だろう)ことを知って、悲しんでいたのでした
人に自慢できる人生でもなく、人並み以上の能力も才能もない自分が、自分なりに頑張った結果の、今
なんの疑いもなく、「自分程度のことは、この子もできるようになるだろう」「多くの子供たちができることは、それなりにできるようになるだろう」と思っていました
ところが、自分の子供は、「多くの子供たちができることは(おそらく)できない子供」だと宣告されたのです
同じ程度のことができなければ、「この程度」の人生すら送ることができない「この程度」が叶わない人生とは、どんな人生なのか・・・
考えると気が狂いそうでした
他の子と何か違うと感じ始めた年中頃
小学校に入学して、戻ってきたテストに驚き、担任の先生に相談した1年の秋
3ヶ月待たされて受けたWISCとK-ABCの結果が出た2年の夏
小児精神科で診断をされた2年の秋
そこから、本やネットで手当たり次第に凸凹さんについて調べる中で、松永医師の言葉に出会いました
なぜこんなに悲しくて、なぜこんなに苦しいのか
人が一人死んだのだから、悲しくて当たり前
大切に育てていた子供が死んだのだから、苦しくて当たり前
期待した子の死からちょうど3回忌
まだ ”期待した子” が生きていたらと思うこともあります
「”期待した子”の死が何かの間違いだったら」(=診断が間違いだったら)と願うこともあります
3回忌を迎えた今、やっと「いつまでも死んでしまった子のことを考えても仕方がない」と、冷静に自分にコメントできるようになりました
そして、少しずつ目の前にいる子のことを、あるがままに見ることができるようになってきました
死んでしまった ”期待した子” のことを考えなくなる日が来るのか
7回忌を迎える頃には、目の前の子供のことだけ考えることができるようになるのか
先のことはわかりません
でも、徐々に今に時間軸を近づけることができるようになってきています
我が家の凸凹さんにごめんねと謝りながら、”期待した子”の死を受け容れられるようになってきた自分を褒めてあげたいと思います