麻生田町大橋遺跡 土偶A 95:水面激変
豊川市の大阪神社から牟呂松原幹線水路(むろまつばらかんせんすいろ)を下流に辿ると、250m以内に位置する金沢町段戸(だんと)の橋に出ました。
金沢町段戸の橋上〈上記地図内(1)の場所〉から上流側を撮影しましたが、陽がかなり傾いている。
牟呂松原幹線水路の分割壁は完全に水没しており、水面は静かで、動いていない。
下流側も、水路の状況は同じ。
上記の橋からさらに下流に150m以内で、おゆき弁財天の社頭に続く橋〈上記地図内(2)〉に出た。
おゆき弁財天は牟呂松原幹線水路を辿ってみようと思ったきっかけになった弁財天だ。
上流側は以下のような状況で、水没した分割壁が透けて見えている。
左奥に見える美しい山形が吉祥山。
一方、下流側は陽光の反射で分割壁は見えていない。
上記写真左岸の竹藪の中におゆき弁財天が祀られています。
橋上からおゆき弁財天の表参道入り口を撮影したのが以下。
表参道は牟呂松原幹線水路に沿うように右手に延びている。
おゆき弁財天の橋から牟呂松原幹線水路に沿って下流に向かうと、260m以内で金沢町西峡(にしざわ)の橋〈上記地図内(3)〉に出た。
以下の写真は上流側。
右手(左岸)の建物は天理教の施設だ。
分割壁は透けて見えるが、水はほとんど動いていない。
下流側も水路の状況は同じ。
水路の奥に樋門らしきものが見えている。
金沢町西峡の橋から下流90mあまりの場所にこれまで遭遇してきた樋門とはスケールの異なる樋門が存在した。
樋門の存在するのはすでに賀茂町村上だが、金沢町側の牟呂松原幹線水路の水面がまったく動いていなかったのは、賀茂町村上樋門が水門を閉じていたからだった。
それにしても、賀茂町村上樋門は幅がこれまでの牟呂松原幹線水路の樋門と異なり、倍になっていた。
牟呂松原幹線水路に追加されている水路を見て驚いた。
水が激しく波立っている。
いったいこの水はどこからやってきた水なんだ。
地図でチェックすると、牟呂松原幹線水路と豊川の間にある別の用水路が暗渠で牟呂松原幹線水路とつながっており、どうも強烈なパワーのあるモーターで上位にある牟呂松原幹線水路に汲み上げているようだ。
実はここで突然現れた用水路は以下の記事で紹介した牟呂松原幹線水路と立体交差して、下位を流れていた用水とつながっていることが解った。
つまり牟呂松原幹線水路から取水して金沢町の水田地帯を経由した水は賀茂町で回収されているようなのだ。
それにしても激しい波立ちの割に、モーター音はほとんど聞こえないから、音響公害にならないように、モーターは地下の深い場所に封じられ、作動は地下で行われているようだ。
汲み上がられた水は以下のような勢いで牟呂松原幹線水路に放出されていた。
賀茂町村上樋門の下流側の牟呂松原幹線水路を見ると、激しい勢いで水が下流に向かっている。
つまり、金沢町からやってきた水は封鎖され、突然現れた用水路から取水した水だけが牟呂松原幹線水路内を流れていた。
しかも松原幹線水路側の方が水量が多くなるように調整されているようだ。
一方、賀茂町村上樋門まで松原幹線水路と分割壁だけで隔たって並走してきた最も左岸側(上記写真左端)の水路は賀茂町村上樋門までは水が豊富だったのに、賀茂町村上樋門を過ぎたとたん、水が無くなり雑草畑の状況に変化していた。
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賀茂町村上樋門で起きていることは小生が表面を観ての推測です。一般には未知の技術を導入して行われている可能性もあります。それにしても、役行者、行基、空海など、日本列島で水や温泉を制御しようとしてきた先達がこの樋門を見たらどう思うのでしょうか。タイムマシンが発明されたら、真っ先に三人を招待して観せてあげたい。