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今朝平遺跡 縄文のビーナス 25:奉納された金色のカナブン
愛知県豊田市古瀬間町(こせまちょう)の古瀬間御嶽山(おんたけさん)の境内で霊神碑の点在する通路を下っていくと、谷の底に降りる形になりました。
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谷の底は砂地になっており、2列に並行した、何かを燃やした跡があって、その四隅に鉄棒を立て、黒黄のロープで囲んであった。
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2列の焦げ跡は柴燈護摩(さいとうごま)火渡り式の跡だと思われる。
本来は火炎の中を渡るのだが、それを簡略化して中央を通るようにしたのだろう。
火渡りをすると無病息災が叶うと言われ、護摩の灰は持ち帰って家の周りに撒けば厄除けになるとされている。
火渡り式跡の先には数段の石段で上に上がるようになっていて、その石段の先には玉垣で囲われた壇があり、その中央に巨石が積まれている。
さっき、寄って来た稲荷社と同じように壇の周囲は潅木で覆われている。
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石段を上がると、玉垣は1.2mほどの高さの亀甲積の石垣を持つ壇上に巡らされていることが分かってきた。
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瑞垣の中央に積まれた巨石の上には何かが立っている。
土壇上に上がると、コンクリートでたたかれた参道が石段から奥に延びており、その先には巨石が4段に積まれていた。
その上に銅の像が乗っていたが、その像は遠くから見ると、囲んでいる潅木と色が近いので、認識できていなかった。
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その憤怒相の立像は等身仏で袈裟掛けに布を纏っており、右手に法剣を縦に構え、左手に策(さく:ロープ)を抱えており、背後には火炎が立ち昇っている。
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不動明王像だ。
不動明王は屋外で行われる柴燈護摩の本尊として奉られる仏だが、背後の火炎は魔を払い、悪を焼き尽くすとされている。
柴燈護摩は空海の孫弟子にあたる真言宗当山派の聖宝理源大師が始めた式とされ、山岳修行を行う修験道と結びついたものなので、同じく山岳修行を行う御嶽山信仰に習合されたものと思われる。
不動尊の壇を降り、西の山の頂にある社殿に向かうことにしたのだが、稲荷社や不動尊のような参道が見当たらないので、直接社殿に向かって山の土手を登ることにした。
潅木の間や雑草の隙間を縫って登っていると、自然石を積んだ塚の中に不明の石仏2体を祀った場所があった。
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山の土手を登りきると、頂上は整地されていて、やはり小さな護摩壇を持つ南向きの社殿があった。
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社殿は瓦葺切妻造棟入の建物で、正面はガラス格子戸に閂(かんぬき)棒が通されていた。
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社殿前で参拝して、白壁で囲われた殿内を見ると、中央に檜皮葺(ひわだぶき)神明造の社が祀られ、殿内にはほかに不明の石仏が収められていた。
社の扉の前には「秋葉大権現」と「三社大権現」を兼ねたと思われる「鎮防火燭」と墨書きされた大きなお札が上げられており、宛名が「古瀬間御嶽山」とある。
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「三社大権現」とは最初に秩父御岳山に創建された以下三社の神の総称だ。
・意波羅天宮(秩父御嶽山の麓にある意波羅山の神)
・刀利天宮(奈良県御蓋山の神)
・提頭羅天宮(新潟県八海山の神)
「鎮防火燭」とは、かまどや燭の火を鎮め、防ぐという意味で、「火の用心」と同義だ。
驚いたのはこのお札に重ねられていた幣束(へいそく)だった。
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幣束は麻や紙で造形された神に供えるささげもののことだが、この幣束には榊の葉も使用されていた。
何より驚いたのは、その造形が一瞬、飛び立った瞬間の金色のカナブンを連想させるものだったことだ。
まあ、見る人によってはガンダムかトランスフォーマーの変身ロボかもしれない。
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山の頂に祀られた社殿が古瀬間御嶽山だったことから、谷底に設置された社務所かと思われる建物が、元は御嶽神社本社で、ここ山の上に祀られて残っている古瀬間御嶽山は奥宮の役割だったのかもしれないと考えました。