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麻生田町大橋遺跡 土偶A 46:竜宮に住む和邇と夜啼き石
レイラインAM上で岡崎市佐々木町 神明社の西側に位置するのが西北西1.2km以内に位置する安城市の酒人神社(さかんどじんじゃ)。さらに酒人神社の北北西11.6 kmあまりに位置するのが刈谷市の本刈谷神社(もとかりやじんじゃ)とその境内にある本刈谷貝塚ですが、この3ヶ所はすでにnoteに紹介していますので、ここでは本刈谷神社の北北西1.9 kmあまりに位置する愛知県知多郡の入海神社(いりみじんじゃ)を紹介します。
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●酒人神社
●本刈谷神社
●本刈谷貝塚
●入海神社(いりみじんじゃ)
入海神社は11年前の夏と2年前の早春に、入海貝塚を見るためにやって来ている。
この記事の写真はすべて、2年前の参拝の時に撮影したもので、その時の体験を中心に紹介していく。
2度目の来訪なので、社頭が社地の南東端にあるのは判っていた。
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東側の社頭には狭い一般道が通っているので、一ノ鳥居である石造伊勢鳥居のある社頭に愛車を突っ込んだ。
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東南東向きの大鳥居の右脇には「郷社入海神社」と刻まれた社号標が立っていた。表参道は五段しかない石段から始まっており、西北西に向かって延びているが、参道は途中に複数の短い石段を介しながら、標高差7mほどの丘陵の上に向かっている。
石段を登り切ると、細かな白っぽい砂利が敷き詰められ、参道はニノ鳥居をくぐって、奥に延びているが、参道の中に前回来た時の記憶に無い、他から持ち込まれたと思われる、まだ新しい石灯籠が置かれていた。
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ニノ鳥居をくぐると、左手に右手にある拝殿に向かうように蕃塀(ばんべい)が設置されている。
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この蕃塀に向かい合えるように表参道は蕃塀の直前からくねらせてある。
上記写真は蕃塀の内側から撮影したもので、通常撮影する外側には回れないように純白にペイントされたバリケードが置かれていた。
蕃塀の向こう側は南隣にある真宗大谷派 了願寺の墓地になっている。
なぜ、こんな邪魔な場所に蕃塀があるかというと、おそらく、かつての表参道は了願寺のある南に延びていた可能性があるものと推測できる。
つまり、かつての入海神社と了願寺の前身である寺院は神仏習合していた可能性が考えられるのだ。
しかし、なぜ邪魔にならない場所に蕃塀を置かないのか。
蕃塀は魔が社内に入り込まないようにするための塀なので、拝殿の正面に置かなければならないからだ。
入海神社でも、蕃塀直前で90度に折れた参道が蕃塀の前から拝殿に向かって延びている。
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拝殿前の表参道の両側には常緑樹が1本あるものの、他4本は梅が並んでいる。
拝殿に上がる石段は異例に幅の広い5段の石段が設けられていた。
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拝殿前に上がって参拝したが、板書は社頭脇に掲示されていて、以下のようになっていた。
《入海神社》
祭神 弟橘比売命
社格 愛知県神社庁五級社
所在 愛知県知多郡東浦町大字緒川字屋敷一区四十六番地
由緒
昔日本武尊尊御東征の折り当地の穂積忍山簀宿弥は水軍を編成し 弟橘比売命は御后として従軍し途中(※走水海)荒天に遣い全軍の安泰を祈り弟橘比売命は海に入られた御櫛が当里の紅葉川に流れつき これをお祭りした これが入海神社宝亀年間(※766〜781)の起源と伝えられている (※=山乃辺 注)
「弟橘比売命」は『古事記』での呼称。
穂積忍山宿弥(ホヅミオシヤマスクネ)の娘で、日本武尊との間に稚武彦王(ワカタケヒコオウ)を儲けている。
走水海(はしりみずかい)とは三浦半島と房総半島に挟まれた現在の浦賀水道のことなので、この両岸に弟橘比売命が祀られているのは当然のことだが、三河のこの地には櫛が流れ着いたが、現在の東京湾沿岸の袖ケ浦市と習志野市袖ケ浦にはそれぞれ弟橘比売命の左右の袖が流れ着いたとする伝承がある。
「入海神社」という社名は弟橘比売命が海に入水したことにちなんだ社名なのだろう。
拝殿の西側の回廊前には石垣の組まれた基壇が設けられていて、基壇上に5社の境内社が奉られていた。
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5社の中で気になったのは、もっとも拝殿側に祀られた銅版葺切妻造の子安社だが、その祭神は「豊玉媛命」となっていた。
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豊玉媛命は神武天皇の父方の祖母であり、母方の伯母として知られる存在。
竜宮に住む海神(わたつみ)の娘とされるが、特異なのは、その真の姿が八尋の大和邇(ヤヒロノオオワニ)とされていることだ。
子安社の祭神とされたのは、ワニが卵が孵化するまで、体温で温めて育てるからだろうか。
この社名からすると豊玉媛命の「玉」とは“魂”と“ワニの卵”のダブル・ミーニングなのかもしれない。
回廊前の5社の前方に井戸があり、その井戸の蓋の上に表参道の方を向けて銅版葺切妻造の境内社龍神社が奉られていた。
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祭神は「白龍神」となっている。
拝殿の東側に回ってみると八幡社(応神天皇)と、宗像(弁天)社(宗方三女神)を祀った瓦葺入母屋造の社殿が設けられていた。
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夏にここにやって来た時には灌木が茂っていたためだったのか、その存在に気づかないものがあった。
それは境内の南東の端に置かれていたさざれ石だった。
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前回来た時には注連縄も掛かっていなかったのかもしれない。
このさざれ石より興味を魅かれたのが、表参道を登ってくる途中の右手の石垣に組み込まれていた手水桶(下記写真左端:文字が刻まれた石)だった。
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石垣の上には「夜啼き石」(よなきいし)という表札が立てられ、以下の案内板も立てられていた。
銘に曰く
此の石は、当里にあり
しばしば古城の裏にうたう
怪異伝わり、取るもの無し
神に奉り、水器と為す
寛永二(己巳)歳
仲秋 吉日
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入海神社の境内には入海貝塚が存在していました。というよりは、入海貝塚のある場所に入海神社が創建されたと言った方が正確です。米国の動物学者・エドワード・S・モースが大森貝塚を発見した明治10年(1877)まで、貝塚は価値の無いものでした。
次の記事で入海貝塚を紹介します。