中条遺跡 土偶A 31:力石のペトログリフ
縦に長い刈谷市の北部に存在した泉田古墳の石室が社地内に移転されている泉田町 八王子神社を訪れた時、境内で撮影した石の写真をチェックしていると、またしてもペトログリフらしきものを見つけました。
泉田町 八王子神社はペトログラフらしきものを見つけた築地町(ついじちょう) 熊野神社の北西1.1kmあまりの場所、逢妻川(あいづまがわ)を挟んだ対岸に位置している。
八王子神社は何度も来ているが、社頭が社地の鬼門に位置している、珍しい神社だ。
しかも、社名は「八王子神社」なのに、現在は八王子神は祀られていない。
この神社は板書『八王子神社』の「由緒」によれば創立年不詳とあるが、その社歴は祀られていた祭神によって、大きく以下の3つの時代に分けられる。
1●八王子権現
牛頭天王(ごずてんのう)の眷属である8人の王子を祀っていた
2●八王子神社
天照大神と素戔嗚尊の誓約時に出現した五男三女神を祀っていた
3●八王子神社
神代七代(かみのよななよ)のうちの一柱、國狭槌尊(くにのさつちのみこと)を祀っている
牛頭天王の8人の王子の名前に関する情報は見当たらない。
天照大神と素戔嗚尊の誓約時に出現した五男三女神は以下。
記紀により、漢字の表記が異なる。
『日本書紀』 『古事記』
・田心姫 多紀理毘売命
・湍津姫 多岐都比売命
★市杵嶋姫 市寸島比売命
・天忍穂耳命 天之忍穂耳命
・天穂日命 天之菩卑能命
・天津彦根命 天津日子根命
・活津彦根命 活津日子根命
・熊野櫲樟日命 熊野久須毘命
この中には弁財天と習合する市杵嶋姫が含まれており、現在、境内社として厳島社が祀られている。
祭神が『日本書紀』にしか登場しない國狭槌尊に変更された経緯は不明。
神代七代とは日本神話の天地開闢のとき生成した七代の神の総称。
國狭槌尊の名の「ツチ(槌)」は槌蛇(ツトヘビ:蛇のような外見の妖怪)、野槌(槌蛇の別名)、ツチノコ(槌の子)、アシナヅチ&テナヅチ(ヤマタノオロチに7人の娘を嫁がせた両親)などにも使用されるように、蛇のメタファーとみられ、國狭槌尊が蛇神であることを示唆していると思われる。
社頭の北々東向きの石鳥居をくぐり、
表参道を南南西に向かうと、真南を向いて祀られている本瓦葺切妻造平入で格子戸を持つ拝殿の前に出る。
この拝殿の左手(西側)にそれぞれ、鳥居と参道を持つ境内社の八幡宮と秋葉社が祀られている。
下記写真の秋葉社の短い参道のをまたいでいる八幡鳥居と左右対になっている石灯籠の向かって左側(西側)に生垣があるのだが(縁石が一部写っている)、
その生垣の中に泉田文化財保護委員会の製作した案内立て札『力石(おみやいし)』と『地搗石(じづきいし)』、その足元に立て札に対応した石が置かれていた。
力石が下記写真だ。
長い方の辺が50cmくらいだから、さほど大きな石ではない。
この石の写真を眺めていると、表面に記号らしきものが刻まれているのに気づいた。
そのことに気づいてから、再度八王子神社に行って撮影したのが上記の写真だ。
下記の写真は読み取れる線をピックアップしたものだ。
シュメール文字と相似な記号が複数あるので、それを以下に抜き出してみた。
上記のペトログリフの中で菊花紋だけが記号というよりは写実的なもので、
立体的な浮き彫りになっており、菊の中央の管状花(かんじょうか)の集合した部分が窪んでいる。
菊花紋のペトログリフなんて、日本列島に他に存在するのだろうか。
下記は紀元前575年(続縄文時代)、新バビロニアのネブカドネザル2世により建設されたイシュタール門に装飾された菊花紋だ。
この力石は4方が割り取られており、他の部分にもペトログリフが刻まれていた可能性が高い。
ところで、この石は、ここでは「おみやいし」と呼んでいるが、一般的には「ちからいし」と呼ばれるものだ。
案内板『力石』には以下のようにあった。
(目方二十三貫七百九十匁目)
(89k213g)
この石は、昔から最近まで、競って力を試したもので、当時の若人たちの盛んな意気の印である。
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泉田町 八王子神社の石にペトログリフが刻まれているという情報は見当たらないので、本当にペトログリフであれば、誰も気づいていなかったものということになります。
また菊花に見える紋も、本当に菊花紋であるなら、これまで、見つかったことのないものなのかもしれないのだが…
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