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伊川津貝塚 有髯土偶 59:ダミエの護岸

加冶町を流れる汐川(しおかわ)の両岸堤防上の道は支流で分断されていたり、徒歩でないと入って行けなかったりしていました。そこで、愛知県田原市神戸町の汐川改修之碑前から汐川の左岸(西岸)には戻らず、右岸側をたどって北上しました。ところが、愛車で通れる道は大きな総合病院が立ちはだかっていたことから、紆余曲折して、汐川に架かった汐川橋を渡っている田原バイパスに出た時は汐川橋から東に560mあまり遠ざかっていましたが、汐川を観るため汐川橋に向かました。

MAP1 愛知県田原市加治町 汐川(神戸町・加治町・赤石・東赤石)
MAP2 田原市 汐川橋/赤石橋/ふれあい橋

田原バイパスは田原市街地の南側を東西に通り抜けており、渥美半島を縦断する最も長いバイパスであり、週末には車の途切れることのない通りだ。

愛知県田原市西神戸町 汐川 汐川橋

そして、汐川橋は橋長50m近くある長い橋で、徒歩で利用する人はほとんどいない橋なので、欄干は下流側のみで、上流側はガードレールのみ。
親柱も無い橋でした。

愛車を西側の橋の袂に駐め、歩道をたどって汐川橋の中央に出て上流側を望むと、汐川から下記写真右に合流している宮川が見えるが、汐川の水面幅は宮川の合流点を境に川幅が20mほどから30mあまりに広がっている。

MAP2内② 田原市西加治町 汐川 汐川橋 〈上流方向〉

ここまでで、最も広い川幅だ。

汐川橋の下流側を見下ろすと、すぐ下流110mあまりに架かっている赤石橋が見えるが、その赤石橋手前で、ふたたび水面幅は20mあまりに狭まっている。

MAP2内③ 田原市西加治町 汐川 汐川橋から赤石橋眺望 〈下流方向〉

加治橋上流までは赤銅色に濁っていた水面は青みがかった緑色に変わってはいるものの、相変わらず透明度は低いままだ。
左右両岸ともコンクリートブロックで護岸されている。

汐川橋上流側両岸堤防上の道は車侵入禁止の遊歩道になっているので、赤石の住宅街の車道を通って、赤石橋の西岸に迂回した。
赤石橋は遊歩道に架かっていて、やはり車の進入はできない橋だった。
交通のために架けられた橋というよりも散歩者が景観を楽しむのが目的で架けられた橋のようだ。
こうした橋は汐川では赤石橋だけだった。
その親柱はプレーンな不定形の五角形に石をカットして、クセのある書体で橋名を刻んだものだった。

愛知県田原市赤石 汐川 赤石橋 親柱

欄干はアルミサッシで、格子は鉄棒が使用されており、アルミサッシに合わせた明るい水色でペイントされた部分と錆を意図的に生じさせた部分で波模様を描かせている。

橋面はコンクリートでたたかれているのだが、橋幅はウェーブを描いて広がったり狭まったりと変化している。

MAP2 田原市赤石 赤石橋

赤石橋東岸(上記写真奥)は赤石3号公園となっている。

赤石橋上から下流側を見下ろすと、橋桁が水色にペイントされた汐川がすぐ先に見えていた。

MAP2内⑥ 赤石 汐川 赤石橋から汐川橋眺望 〈上流方向〉

コンクリートブロックを張った両岸の護岸の角度は汐川橋周辺とその下流ではシームレスに角度が変化し、広がっている。

下流側を見下ろすと、左岸には川縁まで降りられるように幅の広い石段が設けられており、右岸は石垣が繁殖している水性の植物で覆われてしまっていた。

MAP2内⑦ 赤石 汐川 赤石橋からふれあい橋眺望 〈下流方向〉

下流170m以内には橋桁を白くペイントされたふれあい橋が見えている。

赤石橋から、やはり赤石の住宅街の車道を通って、ふれあい橋に向かった。
ふれあい橋に着いてみると、この橋は汐川に架かっている橋の中で最も装飾にコストを掛けた橋であることが判った。
親柱の造形にも手間とコストが掛けられていた。

愛知県田原市赤石 汐川 ふれあい橋 親柱

ふれあい橋の4基の親柱には、それぞれ異なった渡辺華山(かざん)の線画が陶板に焼き込まれて、石造の親柱にはめ込まれていた。
橋名は大きな銅板に文字が凹刻され、やはり親柱にはめ込まれている。
欄干も枠内に抽象化した波を透かし模様にして収め、特注して連ねてある。

さらに歩道と車道の間に設けられた橋の中央の生垣にはヘッダー写真の海猫、風、雲を線画にしたモニュメントが建てられている。
さらに歩道と車道の間の生垣には4点の子供たちをモチーフにしたブロンズ像が設置されていた。
また、照明具もモダンな造形のものが使用されている。
ちょっと、装飾の要素が多すぎる気がするが、この地は渡辺華山という画人の出た地であり、奈良時代に東大寺の瓦が焼かれた地でもある。
造形作家が多く登場している結果なのかもしれない。
そして、汐川をすべて辿り終えた後にこのふれあい橋が田原市でもっとも住宅と商業施設が密集している場所に架った橋であることが判りました。

ふれあい橋上から上流側を見下ろすと、ここまで汐川では見たことのないような波が立っている。

MAP2内⑨ 愛知県田原市赤石 汐川 ふれあい橋 〈上流側〉

さほど明快な波ではないのだが、ここまで、床止めのある汐川以外ではまったく波を見ないできている静かな川なので、その波が目に着いた。
この下流には清谷川(せいやがわ)が合流しており、その水量が多いことが影響しての波か。
案外、この二つの水源の重なった波が欄干の波模様の元になっているのかもしれない。

下流側を確認すると、写真では判りにくいのだが、左岸の白いビルの前あたりの堤防に窪みがある場所が清谷川が汐川に合流している場所である。

MAP2内⑩ 田原市赤石 汐川 ふれあい橋 〈下流側〉

この合流点直下の汐川水面に水平に段が1段できているように見えるのがうかがえる。
清谷川と無関係ではないと思われるのだが、まだ、満ち潮の影響の出る場所ではないので、なぜ、こうなっているのか不明だ。

左岸の堤防ではコンクリートブロックが張られた部分に市松模様に大粒の砂利を敷き詰めた部分が現れた。
この部分が冠水した場合、砂利を敷き詰めた部分が流水の速度を抑える役割はするのだろうと思われた。

●ルイ・ヴィトンの市松模様
上記部分の堤防のような市松模様を使用した神戸珠数店が製造した珠数入れなど複数の商品をルイ・ヴィトンが自社のダミエ柄に類似していると、神戸珠数店に警告書を送って来た事件があった。
「ダミエ」とは市松模様のことで、Wikipediaによれば、この系統のデザイン、ダミエ・ラインでヴィトン社は1889年のパリ万国博覧会で、金賞を獲得している。
元々ルイ・ヴィトンのモノグラム・ラインの模様の部位は日本の家紋との共通点があるが、ダミエ柄の商品が発売されたのがWikipediaによれば2007年ごろとされており、『鬼滅の刃』は漫画が2016年から連載を開始している。
ダミエ・ラインとダミエ柄の商品の発祥時期がWikipedia情報では矛盾しているが、いずれにしても『鬼滅の刃』の漫画連載より早かったのは確かなようだ。
しかし、黒緑のダミエの商品に関してはルイ・ヴィトンの商品販売がいつから始まったのかの情報が無いので現時点ではどちらが先なのかに関しては何とも言えない。
ちなみに集英社は2020年6月24日に黒緑の市松模様の商標登録を申請したが「普通に使用されている装飾的な図柄を超えているということはできません」と判断され、登録は拒絶されている。

以下の商品はルイ・ヴィトン  アウター・ジャケット。

ルイ・ヴィトン  アウター・ジャケット (¥584,234)

炭次郎の時代にもアウター・ジャケットは存在しましたが、日本人にとって黒緑の市松模様で違和感の無いのはやはり着物の方だ。

そして、市松模様はフリーメイソンリーの使用してきた模様でもある。
つまり、ルイ・ヴィトンの素性も、そのことと無関係ではないだろう。

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ルイ・ヴィトンのブランドが評価されるようになったのは二代目のジョルジュ・ヴィトンの手腕によるものだそうです。モノグラム・キャンバスのデザインを採用したのもジョルジュによるものですが、モノグラム・キャンバスの複数の柄と日本の家紋との共通点に関して、日本はすでに1867年のパリ万博に参加しており、ルイ・ヴィトンも商品を出品していたので、接点はあり、日本人の正装に付いていた家紋は初代ルイ・ヴィトンが目にしていた可能性は高い。その年、ジョルジュ・ヴィトンは10才でした。


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