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麻生田町大橋遺跡 土偶A 141:本物のデザイン処理された橋

豊橋市談合町の新中世古橋上から、牟呂用水の下流側を眺望しました。

談合橋の下流側水路右岸(下記写真右手)に変化が見えた。

右岸牟呂用水沿いに巡らされた白くペイントされた鉄柵が折り曲げられ、高水敷上に桟橋状に突き出す形でスペースが取られていた。
後で見に行ってみると、木のベンチが2基並べられた休息所になっていた。
直前の記事で談合橋の上流側で、同じように高水敷上に突き出していた堂のお尻を見て、「桟橋状の基礎を設ければいいはずなのだが、」と書いたのだが、

それが、そのまま実現されていた。
しかし、河川事業に携わっている国土交通省に休息所を設ける予算はあっても、堂などの文化財を残すための予算は豊橋市の教育委員会には不足しているという縦割り行政が露呈していた。

もう一つの変化は右岸の護岸壁に白い帯模様が装飾されていたことだ。
上流側の護岸壁にも装飾があったのを見落としていたのかと、改めて直前の記事の写真を見返すと、線で円弧が刻まれているのが確認できたが、写真では視認しにくいものだった。

左岸の円錐状のモニュメントと右岸の高層ビルは近づいてきたら、返って小さく見えてきた。
円錐状のモニュメントは用水沿いのビルのすぐ向こう側にあるようだ。

地図をチェックすると、用水下流の突き当たりに見える橋は暗渠の入り口であることが判った。

90m近く下流の前田橋に移動して橋上から上流側を見下ろすと、眼下の暗渠の入り口には銀色にペイントされた水門の駆動装置が露出していたが、その上に用水があふれた時にひかかって溜まった植物屑や笹竹の幹が残っていた。

この状況になった時、両岸に見えている建物群は浸水しているはずなのだが…

上流側の遠景には遠ざかったことから、逆に赤岩山の頂が視認できるようになってきた。

前田橋は中央分離帯を持つ、くすのき通りが通っていることから橋幅8m、橋長30m近い大橋なのだが、欄干は上流片側だけ。
暗渠入り口の上にしか設けられていなかった。

くすのき通りの歩道上から、南方向を見ると、40mあまり先に3本の金属の柱を合わせて円錐状の形態を表現したモニュメントが大きな歩道橋上に立ち上がっていた。

モニュメントの下で南から延びて来たくすのき通りは、東西に延びている大池通りとぶつかって行き止まりになっていて、T字路になっていた。

前田橋の下流側の歩道に渡ると、もちろん橋桁も欄干も存在せず、直接くすのき通りから小型のコンクリートブロックを敷き詰めた路地が暗渠上に延びていた。
その路地を50mも辿らないうちに暗渠は地下で大池通りを越えて北北東に向かっている。
水面は見えなくても、大池通りから先の暗渠上には1階が商業施設になった5階建の横に長いビルが連なっていた。
その長いビル群はかつて牟呂用水に掛かっていた橋の部分で途切れているようで、牟呂用水の暗渠内の水路は容易に推測できた。
複数ヶ所のビルの途切れた場所に1ヵ所だけ、かつての橋の欄干と親柱の装飾がモニュメントとして残されている場所があった。

かつて石橋が架かっていた場所なのだろうが、現在残されている欄干の片側には「上市南橋」と刻まれた銅の鋳造プレートが取り付けられていた。
ここは神名町だ。

そんな暗渠に沿って下流に向かって1.1kmあまり辿ると、JR在来線と新幹線の線路の間に顔を出している暗渠の出口に行き当たる。

ここは「花田町」であり、いかにも遊郭跡であることを示す町名が残されていた。
遊郭が「遊郭」と呼ばれるだけの規模があったかどうかは別にして、かつての日本全国のJRの駅裏(西側・南側)には他所者が一時、たむろできるスペースが存在した。
現在の花田町はJR関係の事務所や関係者の居住区が中心になっている雰囲気がする。
そのうちの駐車場内の一角に暗渠の出口があって、水路は石垣で護岸されているのだが、その護岸上には土手を守るための樹木が植えられていたらしく、現在はその樹木群の幹が胸の高さで伐採されて残されていた。
上記写真右手のプラットホームの見える側の白いガードレールの下から出た牟呂用水は上記写真左手(北西)に向かっている。
上記写真中央に聳えている高層ビルが豊橋駅ビルの中心になっている建物だ。

新幹線のガード下をくぐって西側の白河町に抜けると、ガードレールの欄干を持つ名称の無い橋があり、上流側は公民館の敷地、つまり、短い暗渠になっていた。
一方、下流側を見ると、50mあまり下流に架かった中央橋の石造の欄干が見えており、両岸には黒くペイントされたワイヤーネットの塀が巡らされている。

上記写真左手の牟呂用水左岸には、コンクリートでたたかれた土手と30cm幅の高水敷が設けられていた。
一方、右岸には左岸と同じ規格の土手と高水敷が設けられ、そのさらに内側に上流側から延々と続いてきている内部に用水路を持っていると思われる、白いコンクリートの高水敷が中央橋に向かって延びている。

その中央橋に移動すると、中央橋には親柱に同心円を立体にした装飾が設けられていた(ヘッダー写真)。
そして、この下流側にも水面は無く、駐輪場の土間になっていて、牟呂用水は再び短い暗渠に隠れていた。

中央橋上から上流側を撮影したのが下記写真。

名前の無い橋と暗渠の入り口が口を開けている。

中央橋から70mあまり下流に向かうと、そこに架かっている手棒橋には中央分離帯を持つ県道388号線が通っていた。
そのため、手棒橋は橋幅30mあまり、橋長10mあまりの大きな橋になっている。
その手棒橋の上流側と下流側には下記写真と同じ規格の欄干と分離帯を持つタイル敷の歩道が設けられていた。

周囲の雰囲気はオフィス街のようだ。

上記写真右手の分離帯は下記写真のように両端に円弧を持つコンクリート造の厚い帯になっており、その上面にコンクリート帯の縁取りのように、同じく両端に円弧を持つステンレス棒の枠を乗せ、その枠にはアーチ状の枠よりやや細いステンレス棒を平行に並べた格子が装飾されていた。


格子棒の下は逆にアール状に窪んだコンクリート板がボルトで止めて並べられている。
これをデザインした人物は、あくまでも“平凡”なものは嫌いなようだ。
この分離帯の側面も上部はコンクリートの地肌をそのまま見せているが、最下層のコンクリートの地肌は黒色に処理され、黒色の上部には白い細線が1本アクセントに通されている。
この分離帯の主に車道側を囲っている縁石も手を抜くことなく両端は円弧に処理されている。
分離帯上面のステンレス枠は何か機能があるように思わせるものだが、あくまでも装飾だ。
何故、車道と歩道の間にこんな幅の広い分離帯が必要だったのかというと、コンクリート帯の両端の円弧の部分にはマンホールの出入り口が存在するからだった。
つまり両岸のマンホールのためにデザインされた分離帯なのだ。
この歩道のデザイナーはマンホールのためにこんな洒落た、そして非日常なデザインを施したのだった。
そして、使用しているマンホールの蓋も、他人のデザインした、通常の鉄製の蓋は排除し、目立たないようなコンクリートを主とした蓋を採用していた。
ただの、1ヶ所も凡庸な形体の存在しないデザインだ。

そして、歩道の向かい側の手棒橋の欄干も、同じデザイナーの手になるものであることは明白だった。
それは上記分離帯とセットになっており、コンクリート壁に金属キャップを嵌めた意匠をしていた。

向かい合っている分離帯と全体のイメージを合わせ、欄干中央部の下にたわんだアールを分離帯中央部の窪んだコンクリート板にイメージを合わせてある。
欄干中央部とコンクリート壁の両橋の円弧部分にだけ、微かなアールを使用し、造作の手間を掛けている。

この欄干中央部の金属製手摺り越しに牟呂用水を見下ろすと、水面までは距離が広がっており、手棒橋に沿って水管が渡されていた。

用水両岸に通っている歩道との間には水色にペイントされたワイヤーネットの壁が張られ、護岸壁は垂直に処理されていた。

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新幹線の線路から手棒橋まで140mしか離れていません。西側なので、戦後なら駅裏と呼ばれる場所です。必然的に小生には豊田市役所がどの辺にあるのか、地図を見なくても想像がついてしまいます。



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