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麻生田町大橋遺跡 土偶A 44:風変わりな築地屏と稲荷の杜
岡崎市針崎町の御鍬神社(おくわじんじゃ)から岡崎市内を西北西に向かい、3.8km以内に位置する藤野稲荷神社に向かいました。
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針崎町 御鍬神社と藤野稲荷神社の間はJRと矢作川に分断されているので、御鍬神社の北側を東西に走っている県道48号線に北上。
48号線を西に向かってJRのガード下をくぐり、渡橋で矢作川(やはぎがわ)西岸に渡りました。
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48号線から南に向かう大和美矢井線というマイナーな道に入り、藤野稲荷神社に向かって南下していると、反対車線の右手の白壁に何かが埋め込まれている前を通り過ぎた。
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それを確認しようと、ブレーキを掛けて停車すると、こちら側の車線の左手の白壁にも何かが埋め込まれていた。
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埋め込まれていたのは石造の双体道祖神だった。
こちら側は昭和町で、石碑を路肩に祀るのではなく、壁に埋め込むという発想に驚いた。
見ると、道祖神石碑がさほど風化が見られないのに、塀の方は老朽化が進み、白壁の下部は湿気が抜けないことから黒カビが繁殖して黒く変色し、上部の継ぎ目に漆喰の補修跡がみられた。
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双体道祖神の像容はデフォルメの見られない基本的なもので、男女が平安貴族の一般的な服装である朝服(ちょうふく)を身につけた姿だと思われる。
一方、最初に見つけた反対車線の塀は外山町に位置するもので、洒落た海鼠塀(なまこべい)だった。
そして、壁に埋め込まれたものは石碑ではなく、鬼瓦だった。
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鬼瓦には菊水の装飾が入っていたが家紋ではないようだ。
一部、墨が醒めたり、剥離があったりしていて、かつて主屋などに使用されていた鬼瓦が流用されたものではないかと思われる。
そして、2ヶ所の塀から数メートル先には積んだ瓦の露出した、見たことのない築地塀(ついじべい)があった。
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瓦を積んだ築地塀は瓦と瓦の間に土を突き固めて積んだものが一般的なものだが、土が流れてしまってこうなったものというわけではなく、瓦の持つ波形の面白さを意図的に利用したものに思える。
妻側を見ると、まったく土が使用されていないわけではなく、土は瓦同士の接着目的で内部に使用されているようだ。
それにしても、耐久性や地震のことを考えると、思い切った意匠だが、地震にはむしろ強い構造なのかもしれない。
この大和美矢井線という狭い道路に面した三つの塀は瓦葺で塀が石垣の上に設けられているという共通点があった。
何かこの地域特有の文化を感じさせるもので、この南側のブロックは字名が「屋敷」となっており、名家が存在したのかもしれない。
この西側には「神木」、北西には「金池」「金取池」という気になる字名が存在し、それぞれの地名の由来を調べてみたが、どれも情報が無かった。
藤野稲荷神社はこの珍しい塀群から大和美矢井線をさらに250mあまり南にたどると、藤野稲荷神社の社頭のある農道の入り口に到達した。
地図に表記のあった藤野稲荷神社を目標にやってきて到着してみると、2社の南向きの社頭が並行して東西に並んでいた。
農道脇に愛車を駐めて、まずは東側の藤野稲荷神社の社頭に立つと、社叢の入り口に朱の鳥居が設置されていた。
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この一ノ鳥居は小型の鳥居には珍しい台輪鳥居で、手前脇に「藤野稲荷神社」と刻まれた社号標があり、砂利を敷いた表参道が森の中に向かっているが、その森の中にも複数の朱ノ鳥居の柱がのぞいている。
一ノ鳥居は頭を下げなければくぐれないほどの小型の鳥居で、奥に進むと、参道脇左右に対になった凝った意匠の大型の石灯籠が設置されていた。
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その石灯籠のすぐ先にあったのは、かなり老朽化した両部鳥居だった。
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この二ノ鳥居のすぐ先には三ノ鳥居があり、その奥に社殿がのぞいている。
三ノ鳥居の前に立つと、一本しか無いが、役割としては千本鳥居のようで、二ノ鳥と同じく、かなり老朽化していた。
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千本鳥居をくぐって狛犬の間を抜けると、参道は砂利から砂地に変わった。
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覆屋が緩やかな丘の上に設けられており、緩やかな石段が設けられている。
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覆屋は瓦葺入母屋造妻入りの覆屋で、正面は舞良戸(まいらど)が閉め立てられていた。
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覆屋前で参拝して覆屋の右手に回ると、覆屋の側面の桟には対になった白狐の面の奉納額が掛っていました(ヘッダー写真)。おそらく、牡牝対なのでしょうが、片方の狐だけが経巻を咥えているものの、性別の判断のできるツールではありませんでした。