麻生田町大橋遺跡 土偶A 186:岡崎最古の神社
岡崎市康生通南(こうせいどおりみなみ)の殿橋の右岸(北岸)に面した、殿橋北交差点から乙川(おとがわ)沿いの道を西に向かい、100mあまり走ると、右手に乙川の流れる真南を向いた菅生神社(すがうじんじゃ)の社頭がありました。そこはすでに菅生町に入っていました。
道路に面して向かって右手に「菅生神社」社号標。
左手に「徳川家康公御厄除祈願之神社」と刻まれた石標。
右手に「七五三詣」の幟、左手に徳川家の三葉葵紋を染め抜いた幟。
正面には石造台輪鳥居が建っていた。
鳥居の正面30m以内に瓦葺の拝殿らしき社殿が見える。
社頭脇に愛車を駐めて、コンクリートでたたかれた表参道に入り、鳥居をくぐると、切妻造平入六間造の拝殿前の階段は正面ではなく、左右に振り分けた階段で、かなり高い場所に上がるようになっていた。
上には上がらず正面麓で参拝した。
表道路に面した場所に掲示された『菅生神社由緒』には以下のようにあった。
さっき観てきた吹矢橋の名称は、ここ菅生神社の旧名に由来することが判った。
現社名の「菅生」は御祭神の菅原道真公の「菅」と徳川家康公の生誕地の「生」を合わせたものだ。
そして、拝殿の床が高くなっていたのは洪水対策のようだ。
拝殿の向かって右側に奥に向かう参道があるので、その参道を辿って本殿を観るために向かった。
幣殿と本殿はそれぞれ、玉垣に囲われているが、瓦葺入母屋造平入の本殿覆屋はさらに高い石垣上に祀られていた。
社殿脇の参道は裏通りに抜ける裏参道になっており、裏からの入り口には石造明神鳥居が設置されていた。
その石鳥居の脇には朱の鳥居とコンクリートでたたかれた参道を持つ秋葉神社が祀られていた。
秋葉神社は内削ぎの千木と3本の鰹木を屋根に乗せた神明造の社だった。
裏参道を拝殿前に向かうと、裏参道の東側には柵にロープが張ってあり、面白いものが置かれていた。
明らかに陽石だが、注連縄が張ってないし、案内書も無いので、一般の人は気づかないだろう。
亀頭部分にヒゲのようにシシランが繁殖している。
名前はランだがシダ植物だ。
湿度の高い岩や古木に着生しいるのを見かけることがある。
葉は長くなると、80cmに至るものもあるという。
日本列島では関東以西から琉球列島にわたる暖地、朝鮮半島、中国、ヒマラヤからマレーシアまで分布するという。
もう少し葉が茂れば名称どうり、獅子のヒゲのようになるのだが。
裏参道の東側には生け垣もあって、大文字草(ダイモンジソウ)が植えられていた。
名称の「大文字」は以下のように白い花が咲くが、その形が「大文字」になることに由来する。
南千島、朝鮮、中国、ウスリー、樺太、日本に分布するユキノシタ科ユキノシタ属の多年草だ。
日本では、北海道、本州、四国、九州の海岸から高山までの広い範囲、やはり、湿気のある岩上に生育するという。
拝殿脇まで戻ると、そこに伸びている樹木に『無患子(むくろじ)』の案内板が取り付けられていた。
案内板には以下のようにある。
拝殿前に戻り、表参道を社頭に向かうと、右手に朱で賑やかしい一画があった。
朱地に「正一位開運稲荷大明神」と白抜きした幟が林立し、朱色の絵馬が鈴生りで、千本鳥居が4本並んだ奥に、やはり朱色の瑞垣の中に朱の社がのぞいている。
別に朱地に「厄除け祈願」と白抜きされた旗も立てられており、朱で満腹になる神社だが、菅生神社は厄除けに特化した神社のようだ。
社頭を出て、表通りの向かい側に渡って乙川を見下ろすと、両岸とも高水敷に通してあるコンクリートでたたかれた通路は幅が広く、空は青く開けていた。
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このあたりの乙川の堤防の土手や河川敷の川沿いが階段状になっているのは、菅生神社の祭に由来する岡崎花火大会の桟敷に使用されるからだということが判ってきました。例祭では江戸時代から提灯を付けた鉾船が浮かび、金魚花火や手筒花火が奉納されていたといいます。
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