麻生田町大橋遺跡 土偶A 115:麦わら帽子の後円部
牟呂松原幹線水路(むろまつばらかんせんすいろ)の豊橋市三上町(みかみちょう)に架けられた城下橋(しろしたばし)を左岸(東)に渡り、城下橋の南東450m以内に存在するという馬越長火塚古墳群(まごしながひづかこふんぐん)に向かいました。馬越長火塚古墳群は1基の前方後円墳と2基の円墳からなる古墳群です。
下記図版は馬越長火塚古墳と大塚南古墳の復元想像図ですが、円墳部だけ石が葺かれてなく、墳頂部だけが異様に高い特徴的な前方後円墳です。
前もってツアーする場所を詳しく調べたりすることはないので、最初にやって来た時の目標は地図に表記されている「馬越長火塚古墳」1基で、前方後円墳であることも、愛知県下最大の石室を持つ古墳であることも知りませんでした。
表通りには案内表示などは見当たらず、GooglMapには古墳への道も表示されていなかった。
しかたなく、表道路からの枝道を入っていってみることにしたのだが、枝道の入り口には住宅があったものの、その先は樹種不明の果樹園になっていた。
道は農道ということになる。
GooglMapに道の表示が無いということは自分が走っている道は私道なのかもしれないと思いながら、奥に進むも、古墳らしきものの気配は無い。
心細くなって、馬越長火塚古墳探索は諦めた。
別の日に牟呂松原幹線水路近くにあるという緑野神社を探しにやって来た時、やはり神社への道が表示されておらず、見つけられなかったことから、時間ができたので、緑野神社からも近い馬越長火塚古墳を再度探すことにした。
やはり、方角的には前回入った農道しか見当たらないので、再度、同じ道を入っていってみると、前回引き返した、もっと先に円墳らしきものを見つけた。
その円墳らしきものの麓に教育委員会の製作した案内書『国指定史跡 馬越長火塚古墳群 3基』が立てられていた。
長い文章なので、ここではまず、馬越長火塚古墳に関する部分を抜粋する。
この案内板で馬越長火塚古墳が前方後円墳であることと、それが古墳群の中の1基であることを知った。
それに、出土している金銅装馬具があまり観たことのないデラックスなものだ。
そもそもこの時代に金銅装馬具を飾る愛馬を持っていたとするなら、今ならフェラーリを愛車にしているようなものなのかと想像してしまった。
この案内板脇にたった150ccの愛車(小さいので、私道にも入りやすい)を駐めて、とりあえず馬越長火塚古墳の後円部の周囲を巡った。
前方部から後円部を眺望したのが下記写真。
墳頂部は高く盛り上がり、裾野は広く広がっていて、麦わら帽子と形容される墳形だ。
一方、上記写真手前の前方部は復元想像図の2段築成の上段部分が削り取られ、削り取られた土は畑地として使用するため、前方部を広げるために使用されているようだ。
当然、前方部を覆っていた葺石(ふきいし)は除去されたのだろうが、下記写真左手前のように墳上のあちこちに残っている。
上記写真の葺石のある部分が、この前方後円墳の石の葺かれた最上段部分のようだ。
葺石の1コを拡大してみたのが以下だが、石灰岩である。
世界各地のピラミッドも石灰岩が化粧板として使用されており、その白さで周囲から際立たせる効果も狙ったものと思われるが、他にも水分を保持しやすい石灰岩であるからゆえの別の共通する理由が存在したのだろうか。
上記写真の石は角が削られ、ここの葺石の中では美しい部類に入るものだ。
ちなみにここはすでに石巻本町に入っており、ここより以北の町名に「石巻」が冠されているのは、石巻本町から派生した町名だからだと推測できる。
そして、馬越長火塚古墳から石灰岩の石巻山頂まで、3.4kmあまりである。
後円墳頂から北側を眺望したのが下記写真だが、対向方向にはこちらの後円墳より高い丘陵が立ち上がっている。
そして、その丘陵の向こう側を牟呂松原幹線水路は迂回して流れていることになる。
後円墳頂から前方部を見下ろすと、上段が削り取られていると言っても、前方部は完全な平らになっている訳ではなく、中央が盛り上がった状態になっている。
後円部のもともと石が葺かれていなかった地表は以下のような状況で雑草の根が混濁した土の表面に潅木の露出した根が這い、紅葉した(撮影時は4月中旬)葉が散っている。
雑草の根が混濁して固まりとなった上で割れ落ち、その下層の土が露出している部分を見ると、細かい砂利状になっているのが見て取れた。
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次の記事では愛知県下最長最大の横穴式石室を紹介します。
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