今朝平遺跡 縄文のビーナス 65:神話と忌部氏
愛知県豊田市森町の八柱神社の回廊の裏面に回り、八柱神社の境内社が祀られている八柱社古墳(やつはしらしゃこふん)に向かいました。
八柱神社回廊の裏面には墳丘の土手が立ち上がっていて、墳頂に向かって3基の石段が延び、石段上に1.5mほどの高さの石垣を組んだ土壇が設けられ、2基の瓦葺の神門(下記写真)が設けられている。
八柱神社境内社が祀られているのは向かって右側の2棟の神門内で、左端は石段のみで門は無く、内容不明の社殿に上がるための石段だ。
境内社の祀られている2棟の門は現在では門をくぐれば境内は繋がっているが、かつては分割されていたのかもしれない。
中央の門守神社(かどもりじんじゃ)の祀られた石段下に立つと、神門の扉は開いており、門柱には素木の板に「門守神社」と墨書きされた看板が掛かっていた。
12年前にやってきた時も石垣は緩み、白壁の漆喰は落ちていたのだが、その時は八柱神社が立派だったので、この後、境内社もリニューアルされる直前の状態なのだろうと思っていた。
しかし、12年後の今もまったく修復はされておらず、看板脇の壁などは外側の壁土が完全に落ちてしまい、構造材の竹小舞が露出してしまっている。
12年前よりも、全体に朽ちている。
豊田市唯一の前方後円墳なのに、なぜ、放置されているのだろう。
石段を上がると、神門の正面奥に門守神社の社がのぞいている。
神門をくぐり抜けると、目の前の吹きっぱなしの覆屋内に杮葺き(こけらぶき)神明造の門守神社が設置されていた。
社(やしろ)としては巨大だ。
門守神社の祭神は八柱神社境内に掲示されていた『社記』板碑によれば、以下となっている。
しかし、この社には扉が3つ付いている。
なので、上記二神の中央に祀られていた神が存在していたのではないかと思われる。
平安時代初期に成立した、忌部氏の伝承『古語拾遺(こごじゅうい)』の天(あま)の石屋の段(岩戸隠れ神話)では、石屋から引き出された天照大神を新殿に遷し、「豊磐間戸命」と「櫛磐間戸命」がその殿門の守衛を務めたとある。
このことからすると、中央には天照大神が祀られていた可能性があることになる。
そして、豊磐間戸命と磐間戸命は忌部氏(いんべし)は祖神である太玉命の御子神なのだが、このことがこの境内社が朽ちたまま放置されている理由かもしれない。
なぜなら、忌部氏の子孫はほぼ四国と房総半島にしか、存在しないので、この境内社を修復する氏子が豊田市に存在していないのかもしれないのだ。
天照大神が岩戸隠れ神話で岩戸内から引き出されるに際して『古事記』ではこう記されている。
簡略に言えば、日本の最高神天照大御神は平の神々に寄って集って騙され、力づくで岩戸からひきづり出され、新殿に移され、豊磐間戸命と櫛磐間戸命がその殿門の守衛を務めた、と言えば聞こえは好いのだが、見方によっては幽閉されたようなものなのだ。
「神話」って、理不尽な話がてんこ盛りのストーリーでもある。
それはともかく、岩戸隠れ神話の時代には忌部氏と藤原氏は祭祀を司るのに同格の氏族だった。
しかし、日本の中世史にあるように藤原氏は日本の政治の実権を握るようになっていったのに対し、忌部氏の名前は歴史上では見えなくなっていった。
その結果が現在の森町 八柱神社境内社門守神社の現状になっているのかもしれない。
『古語拾遺』では櫛磐窓神と豊磐窓神は対となった二柱の神だが、藤原氏が書いた歴史書、記紀(表向きは、藤原氏が書いた歴史書は『日本書紀』の方とされている)のうち『古事記』では櫛石窓神と豊石窓神は天石門別神(アマノイワトワケ)の別名と、二柱の扱いさえされていない。
そして、『日本書紀』には登場さえしていない。
櫛石窓神と豊石窓神は神像として門の両側に設置されていることがある。
以下は秋葉神社の総本社である静岡県浜松市の秋葉山本宮秋葉神社上社櫛磐窓神と豊磐窓神。
櫛磐窓神の方が高齢で門に向かって右側、豊磐窓神の方は年下で門に向かって左側に設置される。
守衛なので弓矢、劔などの武器を持っているのは基本の姿だ。
門守神社を左側から撮影したのが下記写真だが、手前の門守神社覆屋と同じ石垣を組んだ基壇上の右隣にも二周り小さな覆屋が設置されている。
小さな方の覆屋の前に立つと、覆屋はかなり右に傾斜していた。
屋内に祀られた板葺流造の社も三つに区切られており、三柱の境内社が祀られていても不思議ではないのだが、祀られているのは以下の二柱になっている。
知立神社は三河国二宮で旧東海道に面した知立市西町の総本社知立神社〈旧称:池鯉鮒(ちりゅう)大明神〉は江戸時代にもっとも栄えた神社として知られている。
総本社知立神社の祭神は以下の四柱となっている。
森町 八柱神社境内社知立神社では神武天皇のみを祀っていることになる。
東南東を向いた秋葉神社・知立神社の覆屋前には南南西を向けて、「山神」と刻まれた板碑と石祠が大きな河原石を積んだ塚の上に並んで祀られていた。
石祠の方も山神社である可能性が大きいと思われる、どちらかの山神が、この八柱社古墳上に最初に祀られていた神だと思われる。
秋葉神社・知立神社を祀った境内社の正面の神門が以下の写真だが、羽目板は破れ、触れると破損しそうなので、門守神社の神門から降りて、石段下から秋葉神社・知立神社の神門を見上げたところだ。
八柱社古墳の麓には「富士大権現」の石碑が祀られていた。
「富士大権現」とは木花之佐久夜毘売命(コノハナサクヤヒメ)を祀る富士山本宮浅間大社(せんげんたいしゃ)が神仏習合していた時代の名称だ。
つまり江戸時代以前の石碑ということになる。
◼️◼️◼️◼️
東京に住んでいた時、安房(房総半島)で忌部氏の主流である阿波忌部氏直系の三木家28代当主、 三木信夫氏とお会いしたことがあります。四国の旧木屋平村(こやだいらむら)にある四国最古の住宅である三木家住宅には愛車で2度向かったことがありますが、一度目は四国山岳部にガスステーションが見つからず(スマートフォンの無い時代です)、2度目は使用した道路が台風で分断されていて、進めず、まあ、いつでも行けるからと気楽に考えていたのが、自由に県外に出られなくなるような事態が起きたりするとは予想もしていませんでした。現在は愛知県と、四国には近くなったのに逆に行ける機会が少なくなってしまいました。今は興味が東北の方に向いています。