麻生田町大橋遺跡 土偶A 48:カグツチと二柱の龍神
レイラインAMの愛知県内で、もっとも西に位置していたのは東海市横須賀町の愛宕神社(あたごじんじゃ)でした。愛宕神社の西1.2kmあまりの場所は、すでに伊勢湾です。
愛宕神社のある「横須賀町」は、やはり知多半島の伊勢湾側の根元に位置する町なのだが、異例なことに、『Wikipedia』にこの町名の項目が立っている。
その理由は江戸時代初期から由緒のある場所であったからと思われる。
しかし、この地に人が住み始めたのは縄文時代前期前半(約6000年前)のことで、以来この地には現在まで人の営みが絶えたことはなかった。
古代には東海市北部の名和町から熱田の台地に至る一帯に「年魚道潟(あゆちがた)」と呼ばれる干潟が存在していた。
「あゆち(年魚道)」とは「水の湧き出る地」を意味する古語だが、「年魚道潟」の呼び名は、かつてはその干潟を見渡すことができた名古屋市内の丘陵地に存在する、うちのご先祖の土地「あゆち」を冠したもので、それが「愛知」の語源となったと言われている。
この土地「あゆち」が全国区となったのは歌に詠まれ、『万葉集』(巻13)に掲載されているからだ。
以下の地図で見ると、右端の旧国道155号線の東側の愛宕神社の周囲の住宅の密集した地と伊勢湾に挟まれた、新国道155号線の西側の元浜公園の周囲の住宅の無い地が明快に分かれているのが見て取れる。
この部分に住宅が存在しないのは、年魚道潟の南端に当たる部分であり、埋立地だからだ。
つまり、江戸時代の海岸線はもっと愛宕神社の近くに存在していたことが判る。
尾張藩二代藩主徳川光友(みつとも)は馬走村(まはせむら:現在の横須賀町)に御殿を建造し、この地を景勝した。
横須賀町は光友が海水浴を楽しんだことから、“世界初の海水浴場”と喧伝されたこともある地だ。
この地は光友が景勝したことから注目を集め、一農漁村から商業の町へと発展したが、この地に当時の愛宕神社(現愛宕神社の元宮)が祀られると、光友もしばしば参拝に訪れたという。
小生が現在の横須賀町 愛宕神社に参拝にやって来たのは2年前の春のことだった。
愛宕神社の社頭は南北に延びる新旧2つの国道155号線を結ぶ路地の北側に面していて、社頭は背の高い玉垣に囲われた社地の南側にあった。
入り口には石造明神鳥居が建てられ、玉垣の内側に「愛宕神社」と刻まれた社号標。
鳥居から奥に延びる表参道の突き当たりに棟入の拝殿がのぞいている。
愛車を玉垣沿いに駐めて鳥居をくぐり、表参道を20mあまり進むと、右手に印象に残る社号標を兼ねた常夜灯が建てられていた。
拝殿はその常夜灯の10mほど先にあるが、棟入の本棟屋根と向拝屋根が重なり、その屋根の万十瓦(まんじゅうがわら)の巴(紋の入った丸い部分)が連なっているのが印象的な拝殿だった。
木部は素木のままではなく、防腐剤で紅鳶に染められている。
拝殿が土壇が設けられず、地面に直接建てられていることから、この地が水害の恐れが無くなって以降に建てられたものであることが判る。
拝殿前で参拝したが、祭神はイザナミだと思っていたが、社前板書には以下のようにあった。
伊弉冉尊(イザナミ)ではなく、迦具土命がこの神社に祀られたのは総本社の愛宕神社本宮ではなく、若宮(本宮の神の御子神を祀った御宮)から分霊を請けたからだ。
板甚右衛門の妻を助けたのは伊弉冉尊ではなく、迦具土命だと判断されたのだろう。
迦具土命が選択されたことから判断するに、板甚右衛門の妻の「長年の病」というのはおそらく、出産に関わる病だったのだろう。
拝殿の西側には2段に重ねて大型の河原石で石垣を組んだ基壇が設けられており、5社の末社が祀られていた。
本殿からもっとも遠い左端の金刀比羅社(ことひらしゃ:祭神大物主命)だけ、社号標と常夜灯を持っている。
金刀比羅社から右に、上記写真キャプションのように、4社が並んで祀られているが、金刀比羅社の右隣には誠柳社という誠柳大龍神を祀った末社が祀られている。
誠柳講によって祀られた龍神だというが、他地域で見かけたことのない龍神だ。
誠柳大龍神は愛宕神社の南西180m以内に位置する薬王山大教院境内にも祀られているというから、仏教系の龍神なのだろうか。
本殿の東側に迂回すると、こちら側にも3社の末社が祀られていた。
本殿側から、英霊社・恵比須社・天神社だが、本殿からもっとも遠い東端に祀られている天神社は使いの牛像(ヘッダー写真)と常夜灯を持っていた。
この天神社の使いの牛像がユーモラスで、首のすぐ後ろの背中のシワの造形や座っているポーズなど、プリミティブな魅力のある石像で、現代人が製作するには難しいだろうなと思わせる像だった。
この神社の情報で気になるものがあった。
かつて黒龍大神社が祀られており、明治期の『神社明細帳』に記録があるというのだが、その黒龍大神社がどこに行ったのか不明になっているというのだ。
社が風化し、参拝する者もいないことから処分されたのだろうか。
この神社には、この規模の神社で見かけることの珍しい清酒の菰樽(こもだる)が積み上げられ、壁になっていた。
ブランドはすべて全国新酒鑑評会で受賞実績多数の「國盛(くにさかり)」だ。
國盛はここ愛宕神社と同じく、愛宕神社の南南東14.5kmあまりの知多半島(半田市)に蔵元のある中埜酒造(なかのしゅぞう)のブランドである。
そして、「土偶A 46」の記事で紹介した入海神社(いりみじんじゃ)と同じ境川(さかいがわ)側に位置している。
中埜酒造からの距離は入海神社の方が近いのにもかかわらず、入海神社に姿の見えなかった菰樽が愛宕神社には存在している。
神職とのつながりがあるのか、あるいは中埜酒造が入海神社祭神弟橘比売命(おとたちばなひめ:神徳海上安全)よりも愛宕神社祭神迦具土命(かぐつちのみこと:火伏の神)を選んだということなのだろうか。
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愛知県内だけで過去最多の11社2貝塚を通過していたレイラインAMでしたが、このレイラインの特色は伊勢神宮から勧請された神社が3社も存在したことでした。
弁財天(宗方三女神)は境内社が2社、龍神は境内社が3社存在しました。