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麻生田町大橋遺跡 土偶A 13:徐福のトコサブ

役行者磐屋の存在する豊川市御津町(みとちょう)八柱神社(やはしらじんじゃ)から幹線道路の県道373号線に戻り、穴観音古墳に向かいました。

●麻生田大橋遺跡土偶A
1MAP御津町 蔵王神社

373号線を走っている途中、日陰になっている場所が路肩にあったので、この日陰に入って、地図をチェックした。
ふと気づくと脇に上りの石段があり、石段の上に石鳥居がのぞいている。

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ついでなので、寄って行こうと石段を上がっていくと、鳥居の正面奥には幅の広い石段を持った純白の戸と板壁の張られた瓦葺切妻造平入の拝殿が、立ち上がっていた。

2御津町 蔵王神社拝殿

石垣の高さは3m近くある。
社名を表示したものが存在しないので、愛車に戻ってから地図で確認すると、蔵王神社であることが判った。
となると、直前に寄ってきた八柱神社境内に奉られていた役行者の祈り出した蔵王権現を祀った神社ということになる。
しかし、蔵王権現を祀った神社は明治期の神仏分離によって、現在では別の神が祀られていることも解っている。
ここも八柱神社と同じく御津町である。
安城市北山崎町で参拝した蔵王神社の祭神は安閑天皇と菅原道真となっていた。

そして、ここ御津町 蔵王神社は天明元年(1781)創建とされており、祭神は国常立尊(クニトコタチ)となっているが、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)とする説も存在する。
そう、ロック・グループTHE GODIEGOのバンド名の由来となった後醍醐天皇だ。

後醍醐天皇は京都に御所を持つ北朝と並立していた南朝の初代天皇(同時に日本の第96代天皇)であり、南朝は修験道のメッカである奈良吉野に開かれている。
後醍醐天皇が蔵王神社の祭神とされた説があるのは、そのことと無関係ではないだろう。
そして、蔵王権現から改変されて祭神となった国常立尊とは『日本書紀』においては「初めての神」とされる日本の根源神とされる神のことだ。
さらに、同じ三河である渥美半島の田原市には蔵王山(ざおうさん)が存在することが判ってきた。
そして、蔵王山には蔵王権現堂が奉られ、蔵王山の東の麓の田原市吉胡町(よしごちょう)には吉胡役行者が奉られている。
以下の地図は三河に存在する2ヶ所の蔵王神社と蔵王山(蔵王権現堂)だ。
豊川市御津町の蔵王神社周辺と田原市蔵王山の麓には役行者が奉られているが、
もちろん、三河の役行者は2ヶ所どころではなく、多くの場所に奉られている。

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御津町 蔵王神社拝殿の東側の潅木の中には銅板葺の覆屋があって、屋内には大きな社(やしろ)が1社祀られていた。

3境内社寒佐神社

その覆屋の軒下には「寒佐神社」と墨書きされた表札が下がっていた。
覆屋内の社は板葺で、素木を栗色に染めたものだが、覆屋の壁板も同色に染められていた。
覆屋内に雨が降り込むことに対して、防腐を目的として染められたもののようだ。 

4寒佐神社祠

寒佐神社は初めて遭遇する神社で、“読み”を調べてみたが、ネット上にも情報は無く、他地域に存在する情報も見当たらなかった。
ただ、地元の広報誌『みと』(昭和57年10月15日号)に寒佐神社に関する紹介文があった。
以下にその要約文を記載する。

もと、無格社でした。現存最古の棟札に「奉勤仕若宮大明神本地天押雲命天神地秖神主大桑与兵衛大工木村角右衛門、寛文十一辛亥年一月吉日(1634)三州宝飯郡灰野村」とあるように、遠見山山頂に造営された神社と言伝えられ、御祭神は天児屋根命(春日神、藤原氏祖)の御子天之押雲命(アメノオシクモ)です。
当社の本殿は貞享四年(1687)十月造営といわれます。明治21年1月寒佐神社と改称されました。

明治21年1月以降の記録は無いが、その後、御津町 蔵王神社が麓に祀られている遠見山山頂からここ蔵王神社の境内内に遷座し、現在に至るものと思われる。
ここにも“読み”に関する情報は無く、「寒佐」という社名に関する由来の情報も見当たらない。

ところで、「寒」の文字を含む社名を持つ神社で著名な神社が存在する。
相模国(神奈川県)一之宮寒川神社(さむかわじんじゃ)だ。
この「寒川」は古語で、以下を意味している。

寒=清らか
川=湧き水

つまり「清らかな湧き水」を意味しており、寒川神社内に今も存在する湧き水に由来する社名とされている。
そして、『神皇紀(富士古文書)に記されている日本の古代と徐福(じょふく)について』(神奈川徐福研究会 津越 由康)によれば、この寒川神社の創建は徐福が書いたものと推測されている宮下文書(みやしたもんじょ:寒川文書)の保管場所として創建されたという。
ちなみに徐福とは、斉人であり、秦の方士(異術を修め、鬼神に通じた方術を行う者)だ。
そして、紀元前200年前後(弥生時代)に秦始皇帝に不死の薬を探しに航海に出るという企画を出し、童男女数千人を引き連れて日本列島に渡来し、定住したとされている人物でもある。
徐福には秦氏の祖とする説、神武天皇徐福説などがあるが、最近では「イスラエルの失われた10支族」の一族とする説がある。

それはともかく神奈川県と同じく、ここ東三河にも徐福伝承が存在した。
『東三河と徐福伝説』(前田 豊)「要約」には以下のようにある。

「徐福」東渡で、到着した地と言われる場所は、日本の各地にあるが、「本当に定着した地」は、決着していない。
古史古伝・「富士古文献・宮下文書」に記載されるところでは、「徐福」が目指した地は「トヨアシハラミズホの国」であり、「ホウライ」と呼ばれていた。
愛知県の東三河は、古代「豊国」「ホの国」と呼ばれ、ホウライ(鳳来)という地名(町名)がある。 鳳来寺山は、古代の火山で、数千メートルの高さをもつ巨大な「不二山」であったと言われる。東三河は、この不二山の南山麓に位置する。
そして、富士王宮と呼ばれたところが、豊橋市に3箇所(賀茂神社、浅間神社、椙本神社)確認された。つまり、東三河は、まぼろしの「富士王朝」と関係があるようだ。
豊川市牛久保の伝承「牛久保密談記」によれば、鳳来寺山の少し南の「本宮山」の麓には、紀州「古座」から移り住んだ徐福の子孫が繁栄し、秦氏を名乗っていたとの伝承がある。そして、その子孫は全て、三河に居住していた、とのことである。
秦氏の名前は、豊川市に幡多郷などとして、残っているが、中国名であることを嫌って、日本名に変えたといわれる。そのため、現在の三河の居住者に「秦の氏名」は少ないが、羽田氏などの姓の有力者が住まわれている。
古代神都・東三河は、「徐福」の求めてきた、「平原広沢の地」であった可能性が高い。

この文章に出てくる鳳来寺山の南西を流れている豊川はその地域では「寒狭川(さむさがわ)」という別名を持っている。
そして寒佐神社の社名はこの寒狭川に由来する可能性があると思われる。
つまり、寒佐神社の社名の“読み”は「さむさじんじゃ」ということになり、遠見山に祀られていた寒佐神社の元宮は寒狭川流域に存在した可能性があることになる。

もう一つ、note上に『戦国未来の戦国紀行』という記事があって、

そこに「トコサブ」地名に関することが紹介されている。
まず、「トコサブ」地名の由来に関して以下のようにある。

崇神天皇の在位中、熊野の手間戸(牛間戸)港から徐氏古座侍郎(徐福の孫。「徐氏」は姓、「古座」は熊野の地名にして名字、「侍郎」は次郎、もしくは、二郎)が、御津(音羽川河口。豊川市御津町)、もしくは、「沖の六本松」(豊川河口の前島=現在の前芝)(一説に御津の沖)に船で来て、「いい場所だ」と言って菱形集落の菱形(豊橋市日色野町)に住み着き、長山郷に熊野神社を建てたという。この長山熊野神社の神は、「常に天長地久(てんちょうちきゅう)」なので、庄名を「常左府(とこさぶ)の庄」としたという。

文中の御津(豊川市御津町)とは上記地図〈地図内右側の蔵王神社〉の祀られた町である。

そして、「トコサブ」の意味としてこうある。

トコサブ」とは、「長山熊野神社の神=熊野権現=徐福が、常に侍郎(さぶろう)侍(ひ)、見守ってくれている土地」なのです!

何と、熊野権現を徐福としている。

さらに「トコサブ」地名として現存する以下の4ヶ所を紹介している。

常左府(愛知県豊川市牛久保町)
トコサフ(愛知県岡崎市本宿町上トコサフ下トコサフ
処寒(愛知県西尾市下町処寒)
常寒山(愛知県新城市)

これらの情報から、御津町 蔵王神社の祭神クニトコタチ(国常立尊)はサブサ(寒佐神社)の社名と合成して「トコサブ」となるように計画されたものであることが読み取れたのだ。

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たまたま、地図を確認するために停車した場所がトコサブにつながっていたとは…

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