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伊川津貝塚 有髯土偶 89:城山の鎮守神
noteを始めて以来 、初めて6日も記事間隔が空いてしまいました。その間には戦後初めて、我が町内に強盗団が入りましたが、飼い猫が騒いだことから、被害は免れたそうです。我が家にも1週間ほど前に放送されたタモリの闇サイト特番で紹介された偽総務省電話が掛かってきましたし、今だに連日、不在確認の様々な電話が掛かってきています。先ほどは古物商を名乗った女性から電話があったので、ノラリクラリと通話を長引かせたら、側にいた人間から制止されたらしく、話の途中で突然、電話が切られました。この数日は強盗対策をするために、金属棒を用意したり、鎖と鍵を購入したり、雨戸の鍵を修理したり、金品貴重書類を整理したりに時間を取られてしまいました。
さて、愛知県新城市大野の菅原神社から国道151号線を南に向かうと、550m以内で大野交差点に至り、151号線は大野交差点で右折して北西に向かうのですが、大野 琴森稲荷に向かうため左折して東南東に向かいました。大野の市街地を抜けると、南東に向かって登って行く細くて曲がりくねった路地が住宅の間を抜けており、住宅が尽きると広い道に出て、南西向きの市立東陽小学校の正門前に出ました。小学校の正門前からは広くて美しい道が左にカーブしながら、さらに急になって丘陵上に向かっていました。小学校の西側の向かいにある広いグランドでは少年たちが野球をしています。さらに小学校の南東側に回り込むと、表道路から南に分岐して山上に向かう急坂があり、その入り口右脇に『霊験あらたかな琴森神社』という案内板があるのを見つけました。愛車を小学校の校庭沿いに駐め、琴森神社に向かう急坂に入りました。
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愛知県新城市大野 琴森稲荷琴森稲荷の表参道と思われる踏み面の幅の広いコンクリートでたたかれた石段が左右の土手の谷間を上方に向かっていた。
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石段を上り切ると、左手に住宅があり、住宅前には畑地が広がっていた。
神職の住居だろうか。
畑地の縁の農道を兼ねた細くて荒れた通路を辿ると、再び登ってきた石段と同じ幅のコンクリートでたたかれた舗装路が畑地に沿って左に折れており、畑地の前を通り過ぎると、朱地に「琴森稲荷大明神」と白抜きされた幟が左右に林立する林道の参道に変わった。
林道はやや降りになり、狭くなっている。
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さらに進むと、表参道は少し降りながらくねっていた。
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くねった林道を抜けると、谷底の少し開けた場所に出たが、参道が左に折れて幅40cmほどのコンクリート舗装路に変わり、その参道を黒い笠木を乗せた朱の千本鳥居が真っ直ぐ北東に並んでいた。
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千本鳥居の先には登りの石段が立ち上がっている。
千本鳥居を抜けると石段は左にカーブしており、その最上段に総朱塗りの社殿が設置されていた。
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石段を上り詰めると行き止まりになっており、軒下には「琴森稲荷神社」と刻まれた素木の扁額が掛かっていた。
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軒下に入り、参拝したが、表参道入り口の案内板には以下のようにあった。
霊験あらたかな琴森稲荷
今から約600年程前の南北朝時代の頃、この大野付近を支配していた鈴木喜三郎によって、城山に城が築かれたとき、南の鎮守の神として祭られ、後に現在の東陽小学校の敷地となっている場所に建てられた永明庵の守護神として祭られてきた。
大野が秋葉街道の宿場として栄えた頃には、商売繁昌の神として、又、なくし物をした時の願かけの霊験あらたかな神として評判が高く、今もなお参詣者が絶えない。
覆屋内には総素木造の社が祀られていた。
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少し開かれた扉の前には朱のリボンを巻いた巻物が置かれている。
社の向かって左下の床には奉納された陶製の使いの狐像がぎっしり納められている。
これらは現場では暗くて何も見えなかったのだが、明るさをアプリで調整して判明したことだ。
本殿覆屋前から辿ってきた表参道を振り返ると、幟の林立で森が燃えてる感じ。
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参道を戻ると、畑地の脇には苔生した切り株が転がっており、その切り株を枕にして扇型の鮮やかな年輪のような模様のキノコが繁殖していた。
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図鑑で調べてみると、コナラなどブナ科の枯れ木によく生える「ホウロクタケ」であることが判った。
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コルクのように硬く、三河では多くみられるキノコで、日本、朝鮮、中国、台湾に分布するという。
食べられないキノコだ。
「ホウロク」は「炮烙・炮碌」という漢字が当てられる素焼きの土鍋の一種で、茶葉、塩、米、豆、銀杏などを炒ったり蒸したりするのに使用する、底が平らで縁の低い鍋だという。
その焼き色がホウロクタケに似ているようだ。
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大野の市街地の東に連なる丘陵地の一つ、城山の入り口に位置する市立東陽小学校は、よく整備された学校で、手入れのゆき届いた樹木や粒の揃った河原石を積んだ石垣が美しく、丘陵を登って行く雰囲気は、この先に大霊園があるのではと思わせる雰囲気でした。そんな森に、グランドで声を掛け合う若者たちの声が響き、今の日本で明るく目立っているのはスポーツ選手だけだなと思いながら、鎮守のよく整備された杜に入って行きました。