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御用地遺跡 土偶 25:倭姫命の古墳

安城市の比蘇山古墳(ひそやまこふん)からほぼ真西に位置する碧海山古墳(へきかいさんこふん)に向かいました。「碧海」とは碧海山古墳のある碧海台地の名称にもなっていますが、この地がかつて碧海郡であったことに由来しています。
碧海台地とは矢作川
(やはぎがわ)の右岸(西側)に位置する標高30〜50mの台地のことですが、その東端に位置していたのが比蘇山古墳でした。
碧海山古墳は矢作川からみて、比蘇山古墳より470mほど内陸に位置する古墳です。

●後頭部結髪土偶

1MAP碧海山古墳

碧海山古墳は県道286号線の東側に面し、住宅に囲まれた中に位置し、西北西110mあまりの場所には堀内貝塚も位置している。

碧海山古墳にやって来ると、西側が道路なので、住宅に囲まれながらも、全景を撮影することができた。

1碧海山古墳

碧海山古墳は円墳らしく、墳丘は雑草に覆われ、墳丘上には複数の落葉樹と常緑樹が幹を伸ばしていた。
上記写真は12月の中旬に撮影したもので、3月上旬に寄った時には落葉樹だけが全て根元から伐採されていた。
墳丘は道路に面した南西の角だけコンクリートの垣根で土留めがされ、そのコンクリート垣根の角地に教育委員会の製作した案内書『碧海山古墳』が掲示されていた。

市指定史跡  昭和40年11月3日指定

この古墳は円墳で1部破損されていますが、平面の直径約25米、高さ約4米(復元推定)で、頂上が平坦で広いことがこの円墳の特徴です。大きさ、形から見て古墳時代の前半期(1400〜1500年前)のものと思われます。桜井地区には前半期の古墳が比較的多くみられ、古代の西三河地方に於いてこの地域が特殊な立場にあったことを暗示しています。また、この地は碧海郡の郷名の発祥の地と伝えられ、倭姫命(※ヤマトヒメ)の神霊を祈りて社を建て、碧海大明神と称し、里人の崇敬を受けていました。舟繋の椎の大木、一葉松の名木もこの地にありましたが、今は朽ちて里人の俚伝となっています。                  (※=山乃辺 注)

北東の角地は小さな畑になっており、上記に「1部破損」とあるのはこの畑の部分と思われた。
「頂上が平坦で広い」とあるのは「倭姫命の神霊を祈りて社を建て」たことと関係があるのだろう。
比蘇山古墳にも祀られていた倭姫命がここにも祀られたのは偶然ではないだろう。
倭姫命とはどんな人物だったのか。

倭姫命とは第11代垂仁天皇の皇女で、天照大神を伊勢に祀った人物である。
天照大神を伊勢に祀るに当たって、大和国から伊賀・近江・美濃・尾張を経て伊勢の国に入っているから、碧海郡を通ってはいない。
この地との関係を推測すると、ここ三河の西域には伊勢湾を隔てて伊勢神宮と向かい合う地であることから、多くの伊勢神宮遥拝所や天照大神を祀った神明社が存在する。
安城市にも以下の伊勢神宮遥拝所のある酒人神社(SAKATOJINJA)が存在する。

しかし、碧海郡では知多半島や刈谷市と異なり、伊勢神宮とはやや遠い側に位置する。
そこで、この地域から伊勢神宮を遥拝するには無理があり、伊勢神宮が祀られる元になった倭姫命の方を祀ったのではないかというのが個人的な推測だ。
その根底には地方豪族による、大和朝廷との関係を深めたいという思いがあったと思われるのだ。

また「舟繋の椎の大木」とあるように北側に貝塚のあることと合わせると、碧海山古墳の麓の286号線は北を東西に流れる堀内川(周辺に大きな池があった可能性がある)に合流する水路だったのかもしれない。
碧海山古墳は、麓の畑の持ち主の私有地になっているものと思われる。
墳丘上に上がれるのか周囲を巡ってみると、北側は竹藪で覆われ、東側は2軒の住宅が隣接しており、墳丘が露出しているのは東側と南側だけだった。
南側には「碧海山古墳」と刻まれた石碑が建てられているが傾斜は急で、もちろん墳丘に向かう通路は無い。

2碧海山古墳石碑

西側は多少なだらかだが通路らしきものは、やはり見当たらない。
墳丘の傾斜のなだらかな部分は北東の畑に面した部分だけだった。

3碧海山古墳

畑の左手は竹藪になっている。

畑に入るのは避けたいので、再度、竹藪の続いている北側の路地側に廻ってみると、その竹藪の麓は生垣に覆われていた。
碧海山古墳の北側が観られないかと竹藪への入り口を探すと、北側の路地に面した東側の住宅は玄関を道路に向けるのを避け、わざわざ墳丘の方に向けて設置されていることに気づいた。
どうも、この家の地主が碧海山古墳と畑の所有者ではないかと思われた。
玄関は墳丘の方に向いてはいるものの、その家の庭になっているわけではないので、墳丘の北側の竹藪に入ってみた。
竹藪は密集はしてなく、難なく墳丘の麓に出ることができたのだが、墳丘の土手は急だった。

4登り口

だが、上記写真でもかすかに判るように、右下から左上に向かう獣道のような通路があった。
登って行けそうなので、2mほど登ってみると、幅50cmほどの通路に出た。
その通路は墳丘の北西下の畑に向かっていた。
何のことはない、素直に畑の脇から上がってこられるようになっていたのだ。
その通路に入って通路を折り返すと、もう墳丘上だった。
案内書に「頂上が平坦で広い」とあったが、直径約25mの墳丘としては、確かに墳丘上は広かったが、整理されていないので、平坦な印象は無い。
墳丘上には案内書にある「舟繋の椎の大木、一葉松の名木」を継承している椎の木と一葉松が複数本生えている。
墳丘上からはまともに東側の地主らしき住宅の庭が見下ろせた。
眺望の開けているのは、やはり西側の286号線側で、大きな池であった可能性のある堀内公園の観覧車が北西方面の住宅の屋根越しに見通せた。

5北西眺望

北西方面も下記写真の南西方面も住宅で埋まっている。

6南西眺望

麓には下記の通路を辿って、畑の脇に降り、北側の路地に出た。

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碧海山古墳にやって来たことで、比蘇山古墳とともに墳丘上に倭姫命が祀られていたことが判りましたが、倭姫命は三種の神器のうちの八咫鏡(やたのかがみ:天照大神の神体)と草薙剣(くさなぎのつるぎ:熱田大神の神体)の両方を所持していた女性であり、巫女としての役割を担った人物と思われます。

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