麻生田町大橋遺跡 土偶A 84:ミソサザイとミサザキ
岡崎市渡町(わたりちょう)の愛宕神社(あたごじんじゃ)と北西3.2km以内に位置する安城市井杭山町(いぐいやまちょう)の高津神社の南側に並行して通っている東海道本線の北側に添う形で複雑な経路を辿って高津神社に向かいました。
南東から北西に延びる県道298号線を北西に向かっていると2階建以上の建物がまったく存在しない場所に、いきなり298号線に沿って6階建のガラス張りのビルが現れ、そのビルの先に松が目に付く長い森が続いていた。
その長い森が高津神社の杜だった。
社頭は298号線ではなく、ガラス張りのビルを向いている。
つまり南東を向いていた。
社頭部分にはコンクリートでたたかれた広いスペースがあって、その左右の両端に幟柱。
コンクリートでたたかれた部分の外側の草むらには「高津社」と刻まれた社号標。
幟柱の奥には石造明神鳥居が設置され、そこから両側に縁石を持ち無舗装の表参道が奥に延びている。
表参道は高木の社叢が覆っているので、奥は暗くなっている。
愛車を社頭のコンクリートたたきのスペースに駐めて、鳥居に向かった。
石鳥居は比較的新しいものだったが、上側の笠木と島木部分に社叢の樹液が落ちて石肌を黒鳶色に染めている。
鳥居の前に立つと縁石を持つ参道部分は30m以内ほどしかなく、その奥は開けているようだ。
鳥居をくぐり参道を辿ると、無舗装の開けた場所に出た。
奥には瓦葺切妻造の拝殿が見える。
広場を突っ切って拝殿前に至ると拝殿は40cmほどの高さの基壇上に設置され、総板張りの躯体の中央の扉は観音開きで蛇腹折りではないかと思われる縦長の戸を四枚連ねたもので、その左右には腰の高さの舞良戸(まいらど)が締め切られていた。
拝殿の裏面には回廊が巡らされているようで、拝殿の左脇には巨木が枝を広げている。
拝殿前で参拝したが、左脇の巨木の前に巨石を基壇にした黒御影石の板碑『高津神社々殿造営記』が設置されていた。
以下はその一部。
高津社は仁徳天皇大鷦鷯命(オオサザキノミコト)を祭神として住民の崇敬を集めている神社であります 社歴によれば宝永四年三月西暦1707年に氏神様として創建されました
高=川の上流
津=港
「高津」という名称は川崎市の高津(たかつ)や大阪市の「浪速高津宮(こうづぐう)」で知られるが、浪速高津宮は仁徳天皇の皇居があった場所であり、仁徳天皇を主祭神とした高津宮(こうづぐう)という神社が存在する。
つまり、浪速高津宮は高津神社の総本社と考えられる。
この神社の現在の所在地は「大阪市中央区高津(こうず)」となっている。
川崎市高津(たかつ)は多摩川の上流部、浪速高津宮は、阪神タイガースファンが飛び込むことで知られる道頓堀川(どうとんぼりがわ)の上流部に位置している。
「仁徳天皇」という漢風諡号(かんぷうしごう)は後代(奈良時代)に淡海三船(おうみのみふね)が名付けたものであり、本人は知らない名前だ。
仁=おもいやり。いつくしみ。
徳=身についた品性。善や正義にしたがう人格的能力。
淡海三船が大鷦鷯に「仁」と「徳」の漢字をチョイスしたのは、文字通りの人格として知られた天皇だったからだとされている。
一方、「大鷦鷯命」の方は『日本書紀』に順じた名前だが、鷦鷯(サザキ)とは「小さな鳥」を指す古語で、これが転じて小さな事象を示す形容詞「些細(ささい)な」という現代語の形容詞になっている。
そして、「鷦鷯」は現代では「ミソサザイ」という学名で呼ばれる下記写真の鳥である。
「ミソ」は「溝(=谷川)」と解釈されている。
ミソサザイは全長が約11cmしかない最小クラスの鳥で、大鷦鷯命は「鷦鷯」に真逆の意味を持つ「大」を冠したところに意味があるのだと思われる。
一方で、大鷦鷯天皇(オオサザキノスメラミコト)の「サザキ」は鳥の鷦鷯ではなく、御陵を意味する「ミサザキ」ではないかという説がある。
この説だと「オオサザキ」は「大きな御陵」ということになり、最大の前方後円墳である仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の被葬者とされている仁徳天皇にはピタリと適合してしまう。
その場合、問題は仁徳天皇陵の被葬者は仁徳天皇ではないとする説が強くなってきていることだ。
仁徳天皇陵から出土した埴輪の分析によると、仁徳天皇陵は5世紀半ばに築造されたものともみられるのだ。
5世紀半ばというと以下三代の天皇の代とみられている。
第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)
=雄朝津間稚子宿禰天皇(オアサヅマワクゴノスクネノスメラミコト)
第20代安康天皇(あんこうてんのう)=穴穂天皇(アナホノスメラミコト)
第21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)
=大泊瀬幼武天皇(オオハツセワカタケルノスメラミコト)
三代の天皇の中で最大の天皇陵にふさわしい人物は中国の複数の歴史書に「倭王武」と記されている雄略天皇とみられるが、雄略天皇の和風諡号に「大きな御陵」を示す「オオサザキ」の音は存在しない。
それでは仁徳天皇は「大きな御陵」と無関係なのかというと、そうではない。
仁徳天皇は当時最大の父親の御陵である応神天皇陵を築造した人物だからだ。
仁徳天皇の時代、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)はまだ、存在していなかった。
しかし、だからといって、ミソサザイ説を引っ込める訳ではない、「ミソサザイ(鷦鷯)」と「ミサザキ(御陵)」の音の持つ相似性を『日本書紀』編纂者はダブルミーニングとして利用したのではないだろうかというのが小生の推測だ。
ところで、明治時代前期に描かれた仁徳天皇大鷦鷯命の肖像画を見てみたら笑えた。
小生にそっくりだったからだ😅
仁徳天皇の肖像画はほかにもあるが、その1点はどっしりした、細面とは真逆の顔立ちであり、仁徳天皇のイメージである、“高貴感”が表現されいていないので、明治版が出て以降、ほとんど使用されていないのではないかと思われる。
ところで、個人的にこの仁徳天皇陵に“呼ばれた”と感じた出来事がある。
ある年の夏休み、深夜に入稿を終え、愛車のYAMAHA SRX 400(下記写真)で
四国に向かうため、翌日午前中に国道25号線(自動車専用道路)で河内国分まで走り、そこから高速道路西名阪自動車道に入って堺市に出て、後は大阪湾に沿って南下し、和歌山港のフェリー乗り場に向かう予定だった。
大阪府松原市あたりを走っていたところ、エンジンがカランカランという乾いた音がして、愛車はスローダウンしてしまった。
エンジンのピストンが焼きつき、コンロッドが空回りする音だったのだ。
幸いにして路肩の存在する場所だったので、後続車にはねられることもなく、命は助かった。
路肩に愛車を駐めてどうするか思案していると、後ろからやってきたレーサーレプリカ(スピード走行を目的とするモーターサイクル)が止まってくれて、近所にあるYAMAHA店まで乗せていただけることになった。
地元のペンキ屋さんで、どこにYAMAHA店があるのか、ご存知だった。
そのYAMAHA店は仁徳天皇陵のすぐ東側にあった。
それは小さなバイク屋だったが、すぐに購入できるバイクが1台あるとのことだった。
それがYAMAHA TDR 250だった(下記写真)。
SRX 400は買い取ってもらうことにして、TDR 250を購入することにした。
10日間の予定で、初めて四国を巡る初日の出来事だった。
TDR 250を購入すれば四国を1週間巡ることができる。
当時はバブルの真っ最中で、マネーより時間の方に価値がある時代だった。
SRXのエンジンを焼きつかせてしまったのも、仕事が忙しくて、愛車のメンテナンスに気を使う余裕がまったく無く、エンジンオイルの量を点検していなかったことから、少量だったエンジンオイルが全部燃え尽きてしまったのが原因だった。
SRX 400が単気筒エンジンで、それまで乗っていたモーターサイクルよりエンジンオイルの消費が早い車種であったことも要因の一つだった。
当日は日曜日だったので、役所に書類申請ができず、やむなく、仁徳天皇陵の周辺で1泊することになった。
当時は古墳や遺跡にはまったく興味が無かったが、何もすることがなく、仁徳天皇陵を見学した。
見学したと言っても、その前方後円部の丘陵部は3重の堀と樹木で囲われ、航空写真以外で観るのは不可能であり、明治神宮を外側から観るのと何ら変わりないものだった。
真夏に外周を徒歩で全部巡る気にはなれなかったので、東側と南側の天皇陵入り口だけチェックしたが、最も外側の堀だけは渡れるようになっており、通路には松が植えられ、今の皇居の入り口と共通する雰囲気になっていた。
ところで、ここに“呼ばれた”と勝手に感じたのは小生が桓武平氏の末裔なので、つまり桓武天皇につながっているので、そこから34代遡るものの、仁徳天皇が遠い親戚であることには違いないからなのだ。
天皇陵を見学したのは、他には天武・持統天皇陵のみだ。
話は高津神社境内に戻る。
『高津神社々殿造営記』板碑の裏面の巨木は常緑樹のツブラジイで、地上1.3mほどで幹が二つに別かれており、胸高囲はそれぞれ、267.5cmと340.5cm、樹齢は350年程度と推定されている。
枝が見事に隣の枝との空間をうまく取っている面白い古木だ。
井杭山町 高津神社の南西3.6km以内にはこのレイラインANの起点のひとつである刈谷市の中条遺跡が存在し、
中条遺跡の西北西430m以内にはレイライン上に同じ刈谷市の一色町 八幡社が存在する。
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刈谷市に位置する中条遺跡と一色町 八幡社はすでに取材済みの遺跡と神社。残るは海部郡(かいふぐん)飛島村に位置する渚神社のみですが、渚神社だけ一色町 八幡社から離れているので、この日は実際には井杭山町 高津神社で取材を終え、渚神社は別の日に取材することにしました