伊川津貝塚 有髯土偶 86:役行者と泰澄の開いた神廟
愛知県新城市の能登瀬諏訪神社から国道151号線を南にたどると、1.4km以内で左手(東側)の土手に沿って上方に登っていく石段と、石段の上に複数の朱の幟があるのが視覚に入り、行き過ぎてから引き返しました。この石段や幟は北に向かっている時は死角に入り、気づかないものでした。
この部分には独立した歩道が無く、車道の端にラインが引かれただけの歩道だったが、やむなく、愛車を石段の麓に駐めた。
石段の麓から上方を見上げると、階段は石ではなく、土を固める何らかの処理をしたものらしく、階段脇の土手も崩れないように同じ処理がされた土手だった。
最初の階段の上は踊り場になっていて、参道はスイッチバック式に折り返して上方に向かっていた。
最初の踊り場には「二社御〓前庭燈」(〓は宝の旧字?)と刻まれた常夜灯が1基設置され、右脇には常夜灯の竿部分上半分だけが立てられている。
151号線から登って来た表参道は常夜灯前で折り返して左手に向かっているが、分岐した通路は常夜灯の背後に降っていく石段になっている。
ただ
この石段がどこに向かっているのかは不明。
常夜灯前で折り返した表参道は緩やかな上りで、土手側が柳煤竹色にペイントされた鉄のH鋼柱が地面に打ち込まれ、それに同色の直径が1cmくらいありそうな縄のように捩られた鉄のワイヤーが張られており、向かい側の151号線(左下に見えている)側には白くペイントされた金属パイプの柵が組まれている。
土手側のH鋼柱と鉄のワイヤーは崖崩れに備えたものと思われる。
参道の両側には複数の朱の幟が並び、「愛宕神社」と白抜きされている。
参道を進み、スイッチバック式に10度折り返すと、石段の上に瓦葺切妻造平入で、前面の全面が格子戸の堂のような建物の麓に出た。
愛宕神社だ。
シダ類と灌木に覆われた小山のようになっている頂きには複数の幟が立っている。
その最後の石段を上がりきって登って来た石段の方を振り返ると、151号線が左右の市街地を抜けて南に延びているのが見えた。
ここは標高178mの愛宕山の頂上でもあり、
井代城(いしろじょう)跡でもあるようで、東西の尾根の狭間を抜けるしかない通路を一望できる立地にある。
参道に掲示されていた案内板『愛宕山縁起』には以下のようにあった。
平安時代にすでに山城が築城されていたとは。
諏訪と三河を結ぶ経路はいくつか存在するが、ここも移動効率の高い通路の抜ける場所だったようで、それは現代になっても変わっていない。
愛宕神社覆屋前に立つと、プレーンに積まれた石垣を利用して大井屋が設置されていた。
ここでも向拝部の左右の柱には榊立てが取り付けられていた。
参拝して屋内を観ると、屋内には檜皮葺流造の社が祀られていたが、すでに改築されて30年が過ぎているのだが、素木がまったく焼けておらず、埃も被っていない美しい社だった。
扉の数からして、3柱の神が祀られていると思ったのだが、情報は「ホムスビ」一柱しか無い。
全国に約900社を数える愛宕神社の総本宮は京都の愛宕神社だが、やはり愛宕山上に鎮座している。
以下は、その本殿。
その本殿に現在祀られている主祭神に関して総本宮の公式サイトには表記がないが、神仏習合の時代に奉られていたものに関して以下とある。
ただ、Wikipediaでは現在の主祭神は以下となっている。
イザナミの関係者が祀られている。
しかし、総本宮 京都 愛宕神社「後由緒」には『「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志」白雲寺縁起によれば、大宝年間(701~704)に、修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄(たいちょう)が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立しました。 』とあり、神社というよりは山岳信仰の場であり、社殿より山のほうが重要なのだと思われる。
新城市(しんしろし)の「愛宕山」は京都の朝日峰(愛宕山)に倣って設定された山なのだ。
総本宮 京都 愛宕神社には以下の奥宮が存在し、大黒主命以下17柱が奉られている。
そして、新城市の「愛宕山」にも奥宮は存在した。
(この項、続く)
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総本宮 京都 愛宕神社は公式ウェブサイトで祭神に関するまとまった情報を出していません。【御由緒】の中で、上記記事中で紹介したように勝軍地蔵と天狗太郎坊に関して触れているだけです。明治時代の神仏分離以降の神社本庁などの認識している上記イザナミとその関係者五柱を認めていないのかもしれません。ほかの神社と異なり、「勝軍地蔵と天狗太郎坊」から「イザナミの関係者」への変遷は納得できるものが何もありません。