麻生田町大橋遺跡 土偶A 47:縄文土器のヘソはドングリのヘソ
愛知県知多郡の入海神社(いりみじんじゃ)の境内に入海貝塚は存在しています。発掘のメインになっている場所は社殿の東側の貝層の一部で、入海神社境内のある台地の端、段丘崖の上に位置しています。
貝塚の様子は2年前の早春に撮影した写真で、台地の麓の写真は11年前の夏に撮影した写真で紹介します。
入海貝塚(入海神社)は南北に延びる知多半島の根元の東側に位置している。
入海貝塚(入海神社)のある台地の東側の麓には岡田川が流れており、11年前の夏にやって来た時にはカルガモや亀の姿が見られた(ヘッダー写真)。
入海貝塚の貝層の存在する場所は現在の入海神社の社殿を取り囲むように3ヶ所に点在し、調査はもっとも広い貝層と、もっとも小さな貝層の一部で行われた。
もっとも広い貝層は社殿の東側で、もっとも小さな貝層は拝殿の南側に位置している。
レイラインAMは見事に入海貝塚も通過している。
上記地図にある水路の様子を見ると、この台地上には湧き水があったようだ。
入海神社のある台地と岡田川の間を流れている水路は東の麓から西の台地側の中腹まで辿ることができたが、住宅の私有地を抜けているため、水源まで辿ることができなかった。
境内を流れている水路は11年前にはすでに消滅しているか、暗渠化しているようだった。
入海貝塚のうち、社殿の東側の部分は玉垣とバリケードで閉じられ、立ち入れないようになっている。
立ち入れない玉垣の前には南向きに「史跡 入海神社」と刻まれた石碑が建てられ、銅板葺屋根を持つ案内書『入見貝塚』が掲示されていた。
愛知県だけの事情なのかもしれないが、こうした遺跡の記念碑は戦後の早い時期に建てられたものほど大きくて立派なものが多いので、石碑を見れば、いつごろ文部省の告示を得た遺跡なのか、大雑把な把握ができる。
この入見貝塚は大正期には認識されていたというが、案内書裏面の資料によれば、なんと終戦の年に発掘調査が行われている。
入海貝塚石碑は表参道入口の右脇の麓から台地上に登ってくるスロープを登りきった正面に建てられており、神社への参拝者は石段のある表参道を、入海貝塚見学者はスロープをと、別個に入場できる設定になっているようだ。
バリケード越しに覗く、社殿東側の貝層は埋め戻されて空き地になっており、空き地の北側と東側は段丘崖に沿った社叢に取り囲まれているのみで、貝層の痕跡を見て取ることはできない。
もちろん他の2ヶ所の貝層跡にも、地表には何も残っていない。
案内板には以下のようにあった。
現在は知多半島と三河を南北に流れている境川と逢妻川(あいづまがわ)が分断しているが、以下のように縄文海進期の知多半島と三河の間は遠浅の入海(いりうみ)だったと思われる。
この入海は室町期の海進期にも「衣浦湾(きぬうらわん)」がこのあたりまで広がっていて「衣ヶ浦(ころもがうら)」と呼ばれていた。
上記の案内板の裏面はガラスケースで覆われたパネルになっており、入海貝塚の出土品を含めた資料が展示されている。
入海貝塚のもっとも広い貝層に関して以下の情報が掲示されていた。
上記4種の貝のうち、現代の日本人に馴染みのない貝が以下の2種類だ。
ハイガイは香港の飲み屋で貝を頼むと、こればかり出てくるが、火を通したものは身が青紫色をしていて美味しそうなのだが、味はほとんど無かった。
美食だった縄文人にとっても、シジミの方が好まれたのは間違いないと思う。
ハイガイは浅瀬の干潟(ひがた)が発達した地域にだけ棲息する貝なので、縄文期にこの周辺の海がそうした環境であったことが推測される。
アカニシは名前が知られていないが、鮮魚の専門店には出ることがあって、実は「サザエのつぼ焼き」として多くの人が知らずに食べている。
ザザエとの殻の形の違いは棘の有る無しと、色味の違いくらいなので、小生も縄文遺跡に興味を持つまでは、なんとなくアカニシを雌のサザエだとばかり思っていた。
名前のようにアカニシは殻の内側が赤みを帯びていて、武骨で地味な色をしたサザエと比較すると、ことさら雌っぽいのだ。
案内板の裏面には以下の入海式土器復元図が掲示されていた。
この図を見た時、シラカシのドングリの殻斗(かくと)をモチーフにして製作したものではないかと思った。
縄文時代早期・前期(15000年前〜5500年前)の多くの尖底土器は文字通り底が尖っているが、底の最先端部は丸めて収めてある。
ところが、入海式土器は底にシラカシのドングリのようにヘソが付いており、それが大きな特徴だ。
ドングリの殻斗も樹種によって様々で、シラカシのドングリのようにドングリの半分以上を覆っているものは少数派だ。
ヘソもシラカシのドングリのように存在するもの、アラカシのドングリのように平らなもの、マテバシイのドングリのように凹んでいるもの様々だ。
縄文時代中期(5500年前〜4400年前)になると底を平らに処理した深鉢形土器が登場するが、多くの人が「縄文土器」と言われて思い浮かべるデコレーションの多い縄文土器は縄文時代中期のものである。
もう一つ、入海貝塚の入海式土器の特徴は口縁部にヘラなどで刻みを付けた帯状の装飾があることだ。
この装飾も、シラカシのドングリの殻斗に見られる刻みのついた横縞に倣ったものに見える。
現在、竹倉史人氏の著書『土偶を読む』が話題になっているが、内容は土偶の造形が植物や貝などの食物が元になっているというものだ。
であれば、土器の造形がドングリに触発されたものであっても、不思議ではないだろう。
さらに入海貝塚の入海式土器の特徴はイネ科植物の繊維を含んだ土で作られていることだ。
これが、どの状態の繊維なのかという情報が無いので、確実なことは不明だが、新宿百人町から出土した縄文土器のように土器に使用する土に“つなぎ”として頭髪が混入されていた例があるので、焼き温度が低いことから、もろい縄文土器に強度を出すために、もっとも強い植物の繊維を混入して焼いたのだろうか。
入海貝塚を段丘崖下から見るために、入海貝塚前のスロープを下って入海神社社頭を南北に通っている道路に出た。
その道路に沿って、入海神社の段丘崖下には細長い池が存在する。
11年前の夏のこの池には緋鯉の稚魚がいたが、2年前の早春にやって来た時は大きく育ってはいず、11年前と同じサイズの緋鯉が同じくらいの量いて、池に入れられている石を集めた場所の隙間で、ほとんど動かなかった。
池の北側から入海貝塚の北部を見上げると、ここでは崖下から崖上まで2mくらいしか落差が無く、寒椿などの灌木が台地上を覆っていて、入海貝塚の様子は見られなかった。
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縄文遺跡から窯が見つかっていないことから、縄文土器は「野焼き」と呼ばれる焚き火で焼かれたものと推測されています。ところが、大津市の石山貝塚からは入海貝塚の入海式土器より500年ほど後代の入海式土器が多数出土していて、その入海式土器は野焼きでは得られない高温で焼かれたものと見られています。つまり、縄文人は現代人が考えつかない方法で土器を焼いていた可能性があるのです。
いつか、それが発見されることになるのでしょうが、もしかすると、その方法が現代の焼き物製作技術に転換をもたらす可能性もあるわけですね。