伊川津貝塚 有髯土偶 60:芭蕉の道
愛知県田原市赤石のふれあい橋から、下流510mあたりに架っている船倉橋に向かいました。この間も汐川堤防上には道が無いので、左岸(西岸)の田原町の幹線道路を迂回して船倉橋の左岸に到達しました。
船倉橋の親柱は、やはり交通量の多い、ふれあい橋の装飾とは対照的にコンクリートで平面図L形の柱に「船倉橋」と浮き彫りされた銅板を取り付けただけの質素なものだった。
「船倉橋」という橋名はこの周辺に三河湾から汐川を遡って流通網を利用する倉庫が存在したことを推測させる。
現在も、船倉橋の橋下で川幅は50m近くに広がっている。
船倉橋は汐川に斜めに架かっているので、橋長は60m以上ある。
船倉橋は欄干も最低限のアルミサッシで構成され、鉄黒に染めただけの質素なものだった。
上記写真親柱の背後に見える水色の巨大駐車場はパチンコ店のものだ。
現在の船倉橋を通っているのが古代から渥美半島のメインストリートだった田原街道だが、船倉橋が架けられる以前の汐川は三河湾の内海が現在よりも上流まで入り込んでいて、両岸が遠かったため、船倉橋は存在せず、現在の赤石橋のあたりを田原街道は通っていたという。
当時の赤石橋は江戸時代初期の慶長年間(1603〜1615)に架けられたもの。
寛文年間(1661〜1673)になると初めて船倉橋が架けられた。
以後、現在の船倉橋の上流20mあたりに大正12年(1923)に付け替えられ、現在の船倉橋が昭和45年(1970)に付け替えられた。
田原城下町は田原街道を中心にして汐川左岸(田原城下)の南北に広がっていた。
田原街道は松尾芭蕉が保美村(ほびむら:現・田原市保美町)に居た愛弟子の坪井杜国(とこく)を訪問するために利用した道であり、東海道の吉田宿(愛知県豊橋市)から三河湾沿いを西に向かい、田原城下(愛知県田原市)を通り、伊良湖岬(いらごみさき)に至る街道だった。
●芭蕉の旅路
貞享4年(1687)、芭蕉は弟子の越智越人(おちえつじん)を連れ、杜国を訪問した。
杜国は名古屋城下で米屋を営んでいたが、罪を犯して三河国渥美郡の保美村に流刑されていため、芭蕉は杜国をなぐさめようとしたとされている。
芭蕉が渥美半島にやって来たのは冬で、北西から吹く寒風が吹き荒れていたようだ。
現在の豊橋市杉山町から現在の田原市谷熊町までの約4kmの道程は水田の中を真っ直ぐ通る細い農道で、風をさえぎるものが一切存在せず、そうとう寒い思いをしたようで、以下の句を残している。
冬の日や 馬上に氷る 影法師
この句から芭蕉が馬を利用していたことが解る。
芭蕉は保美村で杜国と合流し、伊良湖岬まで訪ねている。
翌春、芭蕉は杜国も随行し、関西方面をともに巡っている。
芭蕉はこの時の旅の記録を俳諧紀行『笈の小文(おいのこぶみ)』として著した。
船倉橋の歩道をたどって中央に出て上流側を見下ろすと、140m以内に豊鉄渥美線の鉄橋が架かっていた。
現在の豊橋鉄道渥美線は愛知県豊橋市の新豊橋駅から田原市の三河田原駅までを結ぶ渥美半島唯一の鉄道だが、最初から現在の2駅を結ぶ路線ではなく、路線が延伸されたり廃駅になったりと、複雑な歴史がある。
現在は列車は汐川を左岸へ渡って230mあまりで終着駅の三河田原駅に滑り込む。
三河田原駅は1924年に開業しているが、かつてはその先に渥美線が延びていた時代がある。
ふれあい橋から船倉橋に向かっている途中で三河田原駅のロータリー前を通り抜けたが、ずいぶん広いロータリーだった。
その理由は現在は豊鉄渥美線の終着駅になってることを知って、合点がいった。
ここから公共交通でフェリー乗り場のある伊良湖岬へ向かうには50分ほど豊鉄バスを利用することになる。
ところで、船倉橋から見下ろす両岸は汐川をたどって以来初めて住宅だけで埋まっており、落ち着いた雰囲気がしている。
肝心の汐川の水質は相変わらずで、両岸は雑草で完全におおわれているものの、そのエッジはほぼ直線で、何らかの護岸がされていることが推測できる。
船倉橋の下流側を見下ろすと、船倉橋すぐ上流で汐川が右にカーブしていることから、下流側両岸沿いに土砂の堆積があるらしく、両岸水路の雑草のエッジがうねっている。
右手の水色のパチンコ店駐車場の先あたりから汐川の護岸はうちっぱなしのコンクリート造りに変化し、そこから汐川の蛇行が始まっている。
船倉橋から下流500mあまりに架っている田原新橋に向かって左岸塩川沿いを下流に向かったが、汐川堤防がコンクリートに変わった場所からは堤防上は遊歩道になっており、田原町の路地をたどって田原新橋に向かうことになった。
このコンクリートの堤防は高潮に対応したもので、両岸とも河口まで続いている。
田原新橋は汐川に架かっている最後の橋になる。
田原新橋の左岸袂に到達すると、田原新橋は両側に純白のガードレールで区切られた広い歩道を持つ橋だった。
だが、その親柱は何の飾りも無いプレーンな直方体の石柱だった。
銅板の橋名プレートは橋の歩道と車道の境のガードレール側面に取り付けられていた。
愛車を橋の袂に駐め、田原新橋の中央部に出て上流側を見下ろすと、この部分だけの特殊事情で、直前まで60m幅だった川幅が左岸だけ一気に70m幅に広げられていた。
その一気に広げられた部分には土砂が堆積することから川中に芦が茂って壁になっていたが、そこに何やら白いものが水面に立っていた。
シラサギだった。
ここでもシラサギはエサを探している様子はなく、休息をしているだけのようだが、両脚は広げて踏ん張っており、いつでも飛び立てる体勢になっていた。
人家が近いせいか。
やはり現状の汐川ではエサになる生物は少なくて、すぐ下流にある汐川干潟の方がサギ類の好むハゼ類やカニ類、貝類の生息は多いはずだ。
シラサギの右脇のコンクリートたたきの堤防には川辺に降りられるように石段が設けられていた。
田原新橋の下流方向を見下ろすと川幅は一旦、60m以内に戻っていた。
右岸(上記写真右)の堤防沿いの水面には久しぶりに饅頭型の雑草が点在していた。
一方、左岸では堤防の土手に饅頭型の雑草が点在している。
下流の方ではさらに左に汐川の水路がカーブしている。
円形には多くの高圧電線鉄塔や高層エントツなどが視野に増えて来ており、三河湾が近づいて来ているのを感じる。
汐川河口は汐川干潟につながっているので、汐川干潟に向かうことになった。
もう両岸とも堤防上には車の通路は無く、人家も絶えてしまった。
汐川にもっとも近い直線の農道を北東に向かって走っていると、田原新橋から570m以内の右手汐川堤防沿いに何やら水道施設が現れた。
地図でチェックすると田原市中部ポンプ場であることが判った。
ヘッダー写真は中部ポンプ場と用水路の接合部分。
◼️◼️◼️◼️
江戸で俳諧宗匠としての地位を築いていた芭蕉は、世俗的な成功には飽き足らず、純粋に俳諧の道に生きるための旅に出たが、その途中、貞享元年(1684)に初めて名古屋を訪れた。名古屋の東海道鳴海宿(なるみじゅく)では富裕な商人たちが中心になって芭蕉を温かく迎え、連句の会が催された。芭蕉はこの鳴海宿で坪井杜国の窮状を知り、わざわざ馬で豊橋に引き返して渥美半島の保美村に向かったのだった。芭蕉は、その後何度も名古屋を訪れている。