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本刈谷貝塚 土偶 20:レイライン

これからしばらくは元刈谷貝塚(もとかりやかいづか:愛知県刈谷市)を中心としたレイラインを設定して、そのレイライン上に存在する、土偶と関係のある可能性のある物、あるいは場所を巡って紹介していきます。

本刈谷貝塚土偶ヘッダー

《レイラインとは》
まず、「レイライン(ley line)」とは何かですが、久しぶりに『Wikipedia』を観たところ、情報が増えていた。
1921年にイギリス人のアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスの著書『The Old Straight Track』(古い直線路)によって提唱された遺跡の直線的配置性のこと、というのが基本情報だが、新たにワトキンスより以前の1870年9月にウィリアム・ヘンリー・ブラックがヘレフォード(イングランドの都市)にあるイギリス考古学協会に「Boundaries and Landmarks(大地に引かれた境界と名所旧跡)」という説を主張していたという情報が追加されていた。その中で、ブラックは「名所旧跡は、西ヨーロッパ全域に巨大な地理的な線を描くような位置に存在している」という仮説を立てていた。
その仮説に「レイライン」という名称を与え、市民権を得たのがワトキンスの功績なのだが、二人の提唱した「レイライン」の評価は現在でも学術的には主流となってはいない。だが、かといって学術的に否定もされていない。
そして、レイラインは西ヨーロッパだけのものではなく、地球規模のものである。
例えば、明日香村の酒船石に刻まれた線の中には正確にナスカ方向を示す線が刻まれているという。つまり、レイラインの刻まれた石ということになる。
個人的にもこれまで、日本列島内で「レイライン」と呼んでいいと思われるものをいくつか見つけているので、追って紹介することになると思われる。
Wikipediaの新情報の中で気になったのが以下の記述だ。

大英博物館に所属する二人のイギリス人ダウザー(ダウジングにより地下水脈や鉱脈を探し当てる探求家)ロバート・ブースビーとレジナルド・スミスは、レイラインと地下水脈や地磁気の間には関係があるだろうと予想した。

《レイラインの設定と訪問》
今回はまず、本刈谷貝塚記念碑(土偶の出土した場所)と市原稲荷神社境内末社市杵島社(いちきしましゃ:弁財天の祀られていた場所)を結んだ延長線上にあるものをチェックしてみた。

1レイライン南小園神明社 (御手洗池)

上記MAPはすでに訪問した2ヶ所から南東側に延長したレイラインを辿ってみた結果を示したものだが、地図上でチェックできるのは神社仏閣と名所旧跡が中心となる。
もちろんこのレイライン上に神社仏閣は複数存在しているのだが、目的は以下のものに関わりがあるのかどうかに限定している。

・弁才天(市杵島姫命)
・イザナミ
・上記2神の親神&御子神
・龍神&水神&祈雨神
・竜蛇

その結果、レイラインとしては三河湾を超えて対岸の渥美半島までチェックしたのだが、気になった場所は1ヶ所。それは岡崎市に存在したらしい御手洗池(みてあらいいけ)の存在したという小薗神明社(おぞのしんめいしゃ)だった。
それは水脈をたどる作業でもあった。
気になった理由の一つは「小園」という社名の元となった、ここの地名だ。「小園」とは「御園(おぞの←みその)」から当て字を変更されたものであり、「御園(みその)」とは朝廷へ献上するものを産出する地域に当てられる名称であった。さらに御園の存在する、この岡崎市西域には「竜海」「竜南」という地名が存在した。

このシリーズの本刈谷貝塚 13では


以下のように小垣江町(おがきえちょう)の町名の由来に関して、「小←御」の当て字変更が行われ、

小垣江←御垣江(=神の御垣の入り江)

本刈谷貝塚 土偶 14で、その小垣江町に「北竜」「東竜」の地名があることを紹介した。


つまり、「小←御」の当て字変更と「竜地名」が刈谷市と岡崎市の双方でセットになって存在していた。

この事実を知っては、この熱暑で死亡者が多発している中、エアコン無しのバイクとはいえ、現地を訪問しないわけにはいかなかった。
東側から小園神明社のある岡崎市中島町小園に向かうと、右手に巨大な石造伊勢鳥居が現れた。

2小園神明社大鳥居

鳥居は南南西を向いており、脇の表道路に面した場所には「郷社 小園神明社」と刻まれた大きな社号標があるが、鳥居と社号標は、ちょっとした三角形の緑地に存在し、鳥居の奥には鳥居の脇から路地が奥に延びているのみで、杜らしきものが見当たらない。
表道路に大きな日陰があったので、愛車はその日陰に止めて、徒歩で鳥居の先に向かうことにした。
鳥居のある緑地をよく見ると、西側に幅3mあまりの水路跡があるのに気づいた。

3小園神明社表参道脇水路跡

水路跡の西端にはコンクリート造の溝が切ってあり、現役でない水路跡は雑草で覆われていた。
この水路跡の周辺を見て回ったのだが、残っているのは、この緑地脇のみで、溝の前後は暗渠に消えていた。

鳥居をくぐって、路地の先に向かうと、右手の住宅の死角になっている場所に玉垣が連なっていた。
鳥居から30mあまり進むと、特に社頭の雰囲気はないものの、玉垣が切れており、そこから直接、広大な広場に足を踏み入れることになった。
広場は荒れており、東の端に木造の鳥居があるので、見に行った。

4小園神明社脇参道鳥居

そこには珍しい内宮源鳥居(ないくうげんとりい)が建てられ、コンクリートでたたかれた参道の入口脇には「[郷]社 御園神明社」と刻まれた、地衣類の痕の残る旧い社号標が建てられていた。
大鳥居の位置からすると、この鳥居は脇参道の入り口に建てられたものと思われる。
これまで、数千社の神社を訪問してきてるはずだが、脇参道とはいえ、柱が八角柱の鳥居に遭遇したのは2社目に過ぎない。

5小園神明社脇参道鳥居柱八角柱

多数派の木造の鳥居の柱は丸い原木を探して使用しているわけではない。
丸い原木であっても、まずは角材を削り出し、四ツ角を落として八角柱にし、その角を落として円柱を削り出して正確な円柱として使用している。
八角柱は円柱の仕上げの工程を一つ減らした形を利用したものだと言えるが、「内宮源鳥居」という名称は「内宮(伊勢神宮内宮)の源流の鳥居」、つまり伊勢鳥居の旧来の形式の鳥居の意味だろうか。

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鳥居にたどり着いたところで、この回は終了してしまった。

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