麻生田町大橋遺跡 土偶A 94:お神酒の奉納
豊川市金沢町を流れる牟呂松原幹線水路(むろまつばらかんせんすいろ)は南に位置する大照山(おおでりやま)に流路を阻まれて、初めて少し北に戻りながら大照山の西側を回り込んで、ふたたび南に向かいます。
大阪神社を左岸(南岸)に渡り、社頭に愛車を駐めました。
社頭には「村社 大阪神社」と刻まれた社号標があり、石段の2つ目の踊り場に石造明神鳥居。
両石造物は樹液で斑らな紫紺に染まっている。
そして、石鳥居の先には長い石段が立ち上がっていた。
麓を用水が流れている状況から、弁財天や水神が祀られている可能性があると予想して、どこかで奉納しようと、用意してきた清酒のワンカップを持って石段を登った。
石段の登り切ると、すぐ右手に手水桶が設置されていた。
さらに右手奥に東南東を向いた瓦葺入母屋造平入で大きな向拝屋根を持つ拝殿が70cmほどの石垣を組んだ上に設置されている。
拝殿を撮影するために、清酒のワンカップを水の枯れた手水桶の縁に置いて、拝殿前に向かった。
拝殿の前面全面が舞良子(まらいこ)を張った板壁と閉め立てられられた舞良戸(まいらど)で覆われている。
拝所には左右1対の笹竹に架けられた注連縄が張られており、その注連縄の前で参拝した。
この神社に関する情報は現場にもネット上にも見当たらず、祭神は不明だった。
拝殿正面の舞良戸の鴨居に縦に3つの金属製品が並んで取り付けられていた。
●3つの金属製品
一番上だけ鉄製で、下の二つは銅板製だ。
鉄製の扁平な突き出しのあるフックのようなモノは用途不明で、鴨居に取り付けてある面は波型のある菱形の板だ。
2番目は銅板で、菱形の中央におそらく丸に右陰陽勾玉巴紋と思われるものが打ち出してある装飾板。
「おそらく」というのは銅板なので黒白(陰陽)の表現ができないからだが、この玉部分には真ん中に目が付いており、目の付いた2つの巴紋は一般に「陰陽」を表すものである。
おそらく、この紋は神紋なので、唯一の本殿の神に関わる情報だと思われる。
勾玉巴紋は球が上下に並ぶのが一般的だが、ここの勾玉巴紋は球が左右に並んでいる特殊なものだ。
もしかすると、銅板は現在のような横向きでなく、縦向きに使用するのが正しいのではないだろうか。
縦向きでは3つの金属板が並べられないから横向きにしたのだろうか。
しかし、狭いスペースに3つのモノを無理して並べなければならない理由が思いつかない。
現状でも、一番上のフックのようなモノと紋の入った銅板は鴨居の天地のスペースが足りなくて、双方の菱形の尖った部分が重ねて取り付けられている。
小生は縄文遺物で見たことがないが、巴紋は各地の縄文遺跡に見られる紋で、三つ巴紋は歴史上最初に登場する家紋だという。
3番目の双葉形の銅板は蕨紋(わらびもん)などが刻まれた装飾版だ。
拝殿の左脇に回ってみると、渡殿と本殿覆屋は拝殿と同じ高さに玉石で石垣を組んだ上に設置されていた。
渡殿は瓦葺で壁も窓も総板張りになっており、本殿は瓦葺切妻造、壁は総トタン張りの覆屋になっている。
拝殿脇には拝殿と同じ向きに銅板葺流造の境内社が、拝殿と同じ70cmくらいの高さの寺勾配を持つ石垣の上に設置されていたが、この境内社に関しても情報が見当たらない。
ところが、この境内社の右側面に手筒煙火(てづつはなび)が奉納されていた。
豊川手筒まつりでは以下の動画のように市内各連区の神社に伝承されている手筒煙火が一同に会して噴出される。
この境内社の左隣には石を組んだ小さな塚があって、石祠が1棟祀られていたが、これに関しても情報は見当たらない。
大阪神社から南東に延びる脇参道の入り口左手には「天神様」の社号標のある瓦葺切妻造妻入の覆屋が祀られていた。
唯一、情報のある社だ。
格子戸越しに屋内を見ると、トタン葺素木造の天神社が祀られていた。
その浜縁には使いの牛(ヘッダー写真)が奉納されていた。
社頭に引き返すことにして、石段の上に立ったが、ここからは牟呂松原幹線水路の水面は見えなかった。
1番上の踊り場まで降りて遠方を眺望すると、金沢町の水田地や、その向こうに立ち上がっている丘陵地が望めた。
石段を下まで降りると、左手にちょっとした湿地が広がっていた。
ドクダミなどが繁殖し、ごくわずかだが、水面も見える。
はっきりした水源は見当たらないが、石段の西側から水が滲み出ているようだ。
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結局、大阪神社内には弁財天や水神といったものは明快には祀られていませんでした。そして、手水桶の縁にワンカップを忘れてきたことを思い出しました。そこで、大阪神社には弁財天や水神がどこかに祀られていたのだろうと、勝手に解釈することにしました。大阪神社にお神酒を奉納したことにして、下流250m以内にある次の橋に向かいました。