麻生田町大橋遺跡 土偶A 69:龍神のお前立
津島市に存在する津島牛頭天王社だった津島神社総本社の、かつての社地は現在宝生池で別れている北東部が真言宗智山派の牛頭山宝寿院となっています。宝寿院は江戸時代には津島牛頭天王社に付属する4坊の存在した神宮寺の1坊でした。1,200年ほど前、弘法大師(空海)によって神仏習合思想を元に生じた神宮寺は明治期に廃仏毀釈されましたが、時の宝寿院住職だった宥三が私財を投げ打って宝寿院住坊を買取り、檀家を持たず、現在まで守られてきた密教寺院なのです。
牛頭山宝寿院に入るには津島神社の東の大鳥居の右脇を通り抜けて30m近く北に向かうことになります。
入り口には「← 元神宮寺 宝寿院 (西寺)」と書かれた立て看板、宝寿院の告知看板、弘法大師、薬師如来の幟が立っているのみで、コンクリートでたたかれた表参道が延びている。
上記写真の左手が庭園の宝生池になっている。
「西院」というのは3院存在した津島牛頭天王社の神宮寺のうち、最も西に位置していたことから呼ばれていた通称だという。
宝生池の東北岸に沿って潅木に包まれた参道を50m近く進み、宝生池を半周近くすると宝生池の北西部にある対になった象の乗った山門の前に至る。
象に関しては宝寿院が津島神社社地内で鬼門に位置していることと関係があるのかもしれない。
宝寿院は神宮寺として、本堂に鬼門除けの象頭人身の神、歓喜天(聖天)を奉ってきた歴史があるからだ。
山門前には『宝寿院 略縁起』が案内板に掲示されていた。
今より千百有余年前、弘仁九年頃、弘法大師がこの地に来られし時、疫病流行し、庶民の苦しむをあわれみ、牛頭天王の御社の脇に薬師如来を安置し病気平癒を祈願されました。 後の神宮寺の基です。
爾来別当として天王社に出仕しておりましたが、明治初年神仏分離令により、薬師如来を始め仏像・仏画・経巻すべて、当院に移されましたが、今もなお、薬師如来地蔵菩薩のご霊験は、益々かがやき厄難は悉く除かれ、所願成就いたします。
この山門からは石畳の参道が始まり、北西に延びている。
山門前から東の大鳥居を振り返ったのが以下の光景。
山門から山道をたどると、10mあまりで左手に地蔵堂。
さらに10mあまり北東に進むと、密教を示す五色の幕が風にあおられている本堂前に到達した。
瓦葺入母屋造平入の典型的な本堂だが向拝の軒に注連縄が下がっている。
本堂には本尊の薬師如来、日光・月光両菩薩、歓喜天、十二神将が奉られているという。
この本堂の左脇に延びる脇参道があり、そこに入っていくと、南東向きの銅版葺切妻造棟入吹きぱなしの覆屋があり、手前には切り株の台、その奥の基壇には燭台が設けられ、基壇上には社が祀られている。
覆屋の入り口右脇には『泉龍神』の社前板書が掲示されていた。
今から数百年の古い昔、神仏混淆の天王社の頃、宝生池にそそぐ泉のほとりに祀られ、津島の森を守って居て下さった龍神さまは、明治の始めの頃、そのお社はこわれ泉はなくなりそのみ魂を安める所もなく色々ん方便をもって訴えられましたが解る人なく、百年近くたって遂に当院に来られさまざまな不思議をあらわされ、ようやくここにお社を造り「泉龍神」としてお祀りしました。
ご神徳の高いお方です。
お前立を通じてお導き下さいます
お前立とは秘仏の納められた逗子の外側に礼拝するために置かれた、尊容をしのばせる仏像のことなのだが、ここの場合は下記写真の右下にある重軽様(おもかるさま)がお前立になっている。
重軽様とは持ち上げてみて、軽く感じられれば願い事が叶い、重く感じれば叶わないという、願い事の成否を占うものだ。
お前立の蛇像は座布団を2枚重ねして切り株の上に置かれていた。
本堂前に戻ると、本堂前から東に分岐している脇参道に面して南向きに弘法堂が設置されているが、7年前に来た時にはこんな大きな建物ではなく、滝行場が存在した。
7年前に来た時にも、すでに水は枯れていたので、整理されてしまったようだが、歴史の現存物が消失するのは必然とはいえ、もったいない感じがする。
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牛頭山宝寿院では絵入り御朱印が名物になっていましたが、コロナの影響なのか、現在は書置きのみの対応になっているそうです。
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