伊川津貝塚 有髯土偶 35:謎のオオアナウナノミコト
愛知県名古屋市中区栄の名古屋総鎮守 若宮八幡社から名古屋港南線で北上し、国道22号線で庄内川を渡って、北々西5.8km以内に位置する名古屋市西区中小田井の五所社に向かいました。
中小田井 五所社は庄内川右岸の堤防下にあって、周囲の路地は狭く、モーターサイクルを駐められる場所が周辺には存在しなかった。
社頭と思われる場所は社地の南側(堤防上)と西側(堤防下)にあったが、参道の石畳の敷き方を見ると、本来は堤防上にある社頭が表参道の入り口のようなのだが、その社頭は直接、堤防上の車道に面していて、子供が出入りするには危険で、さらに堤防下にある拝殿に参拝するには一度、高い堤防上に登り、石段を降りてくるという無駄な作業が必要で、そのために西側に実際に使用しやすい脇参道が設けられたようだ。
本来の社頭である堤防上に登ってみると、最初の下り石段の右脇に「村社 五所社」と刻まれた社号標が設置されており、石段の途中には2ヶ所の踊り場が設けてあり、鳥居は堤防下に下り切る手前の下側の踊り場に設置されていた。
石段の途中右脇に生えている巨木はクスノキのようだ。
石段を降り、石造伊勢鳥居の笠置の高さまで下ると、石段下には石段の延長上に石畳の表参道が延びており、その正面に瓦葺に拝殿が設けられていた。
鳥居をくぐると、境内には細かくて白っぽい砂が敷き詰められ、表参道の両側には3対の石灯籠が並んでいたが、手前2対の石灯籠は巨大で、もっとも手前の石灯籠は江戸時代のものと思われた。
おそらく、ここは神仏習合していた神社だと思われる。
手前の2対の石灯籠の間を東西(上記写真左右)に延びる石畳が横切っているが、これが脇参道で、上記写真左方向に脇参道の入り口がある。
境内に社叢は多くなく、クスノキが点在している。
陽はかなり傾いており、拝殿の照明はすでに点灯していた
表参道を進むと、銅板葺切妻造棟入の巨大な拝殿が立ち上がっていた。
拝殿前左右には石造の灯明台が設けられている。
拝殿の軒下には額のようなスペースが設けてあり、龍の浮き彫りが装飾されていた。
拝殿入り口に大きな賽銭箱が置かれていたので、拝殿前で参拝した。
脇参道入り口に設置された黒御影板碑『五所社由緒』には以下のようにあった。
『五所社由緒』には「五所」とありながら、上記のように数えると6社が記載されている???
そして、大巳貴御尊(オオアナウナノミコト)は、おそらく大己貴命(オオアナモチ)のことではないかと思われるのだが、大己貴命は天神ではない。
それでは大巳貴御尊はこの神社のみで祀られている特殊な天神なのだろうか。
『五所社由緒』には「オオアナウナノミコト」というルビが振ってあるのだが、このルビの「ウナ」は用水の守護神、あるいは洪水除けの神「ウナネ神」を連想させ、庄内川の外側に祀られている状況の五所社にはぴったり当てはまる神なのだ。
なぜなら、江戸時代には庄内川の堤防は大水で決壊の恐れが出てきた場合には右岸(五所社のある側)の堤防を人為的に切って名古屋城下を守る取り決めがあったからだ。
このことから、ウナネ神と蛇神である大己貴命が習合した神が祀られた可能性も無くはない。
神体は蛇体であるウナギだろうか。
それでも「天神社」という社名は合わないが。
五所社が6社なのは、この不可解な天神社が追加されたからではないのか。
拝殿を迂回して拝殿の奥側に回ると、拝殿の正面には高さ1.7mほどの玉石を組んだ石垣が組まれ、その上に瓦葺切妻造平入で向拝屋根を持ち、前面全面に格子戸と格子窓を持つ祭文殿と思われる社殿が設けられ、両袖に回廊が延びていた。
この社殿前の参道両側にはクスノキの神木が幹を伸ばしていたが、向かって右側のクスノキは生きてはいるものの、左のクスノキの1/4くらいの幹径しかない。
台風で折れたのかもしれない。
祭文殿の格子戸を通して奥に本殿らしきもののシルエットが見えるのだが、祭文殿の屋根と本殿の屋根は続いているのだろうか。
回廊の左手(西側)に朱の幟と朱の鳥居が並んでいるので観に行った。
幟には「正一位稲荷大明神」と白抜きされ、千本鳥居が奥に延びている。
千本鳥居の最初の鳥居には朱地に「伏見稲荷」の金文字の入った社頭学が掛かっていた。
(この項続く)
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尾張藩第7代藩主徳川宗春(むねはる)が江戸時代中期に多くの歌舞伎座を尾張に誘致し、遊郭などを整えたことで、その関係者が全国から尾張に殺到しましたが、名古屋城下に籍を持たない者やタニマチや保証人に当たる人物のいない者は庄内川左岸(名古屋城下)に居住することは許されませんでした。それで庄内川右岸下には河原者、穢多(えた)、非人と呼ばれた人々の溜まり場ができましたが、そのことを推測させる町名や字名が今も残っている場所があります。