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伊川津貝塚 有髯土偶 7:新羅王倭人説
愛知県西尾市吉良町の岩谷山第1号墳のある吉良饗庭(きらあいば)塩の里から県道316号線で、すでに直前の記事で紹介した幡頭神社(はずじんじゃ)を経由して、同じ吉良町の蛇穴に向かうため、再び316号線で海岸通に戻り、そのまま600mあまり西に向い、矢崎川の左岸(東岸)の堤防上を北上することにしました。この堤防上の道は幅が5mほどのコンクリート舗装で走りやすい道路でした。
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矢崎川の左岸に入り、北上していると途中、堤防沿いに地蔵堂のある場所を通り抜け、名鉄蒲郡線(がまごおりせん)の踏切を渡ると踏切から130mあまりの堤防上右手に瓦葺切妻造棟入の小さな堂の前を通りかかった。
下記写真は北側から河口方向に向かって撮影したものなので、堂は左側にある。
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この堂は堤防の高さで堤防の土手に突き出した土台の上に建てられており、堤防下はびっしり、住宅で埋まっている。
このあたりで、矢崎川の川幅は35mほどだ。
愛車を堤防端に駐めて、その堂を観に行くと、破風板だけが海老茶に染められているが、ほかの木部は素木造になっていた。
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扉は観音開きの格子戸だ。
格子窓から堂内を覗くと、役行者石像が奉られていた。
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手前に棚が設けられているので下半身うあ見えないが、椅像のようで、右手に定番の錫杖、左手に経巻を持っている。
基本的な役行者像だ。
ここで役行者像と遭遇したのは予定外の出来事だった。
そして、この4月20日・21日には大阪府箕面市(みのおし)の箕面山 瀧安寺(りゅうあんじ)に於いて、『箕面山役行者音舞絵巻ーいにしえの笛・舞・竪琴・琵琶がたりー』という公演が行われ、知人が案内パンフレットを送ってくれていた。
役行者をテーマにした和楽器を中心にした公演のようだった。
箕面山 瀧安寺は2007年の7月に10日間の息子との夏休みツーリングをした時、天井ヶ岳に登るために寄ったことがあった。
天井ヶ岳は役行者(役 小角)が入滅した場所とされ、瀧安寺の奥の院という関係にあり、箕面市地元の友人の山伏と一緒に天井ヶ岳に登るために瀧安寺に挨拶に寄ったのだ。
下記写真は箕面山 瀧安寺の本堂である弁天堂。
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石鳥居に掛かった社頭額には「辨財天」と浮き彫りされた社頭額が掛かっている。
鳥居の正面奥が弁天堂。
この弁天堂は役行者が弁財天像を作製したことに由来している。
そして、箕面山 瀧安寺には瀧安寺の弁財天は日本で最初の弁財天だと伝わっている。
案内板『瀧安寺 本堂(弁天堂)』には以下とある。
本尊 弁財天尊(通称 箕面弁財天)
脇尊 毘沙門天 大黒天
日本最初の弁財天で、一千四百年近い歴史を有する。役行者によって箕面滝の側に創建されたが、織田信長の兵乱で焼失し、 江戸時代初期に現在地に再建された。
役行者(役 小角)には天井ヶ岳から唐・天竺に飛び去ったとする伝承があるが、案内書『瀧安寺 行者堂(開山堂・奥殿と拝殿)』には「701年 箕面山中の天上ヶ岳頂上より界天姿形を隠される。」とある。
しかし、「役 小角=第33代新羅聖徳王」説をとるなら、小角が亡くなったのは日本史の上でのことになる。
当時のふたりの人物の年譜を整理してみると、以下のようになる。
役 小角=701年天井ヶ岳で没す
新羅聖徳王在位=702〜737
役 小角(おづぬ)は新羅王位を継ぐために新羅に渡った可能性が考えられる。
その根拠は聖徳王の祖父である第30代文武王にも新羅と日本皇室を結びつける説が存在するからだ。
二人の年譜は以下。
新羅文武王在位=661〜681
文武天皇在位=683〜707
両国それぞれの学者が採用した諡号(しごう:死後、貴人に送る名前)が同一なのが偶然なわけがない。
ただ、必ずしも同一人物とは限らず、同族を示すための場合もありえる。
なぜなら、新羅聖徳王と聖徳太子は確実に、別の時代の人物だからだ。
そもそも、『三国史記・新羅本紀』には新羅の旧名=斯蘆国(しろこく)の初代王赫居世居西干(かくきょせい きょせいかん)を倭人としているし、王家の一つ昔氏の第4代王昔 脱解は倭種・倭人(日本人)であるとし、以後も多くの新羅王が倭人だとしている。
ところで、現在の天井ヶ岳山頂には「役行者御昇天所」の碑と共に役行者銅像が奉られている。
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ここで、小角は死去したことになっている。
下記写真は当時、道標の整備されていなかった天井ヶ岳山頂まで案内してくれた知人で箕面の山伏と役行者像。
日常での彼の職能はTDKのパッケージなどを手掛けていたグラフィック・デザイナーだった。
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ところで、矢崎川の堤防上で遭遇した行者堂は「富好新田中川並(とみよししんでんなかかわなみ)の役行者堂」という、長い正式名称があった。
この名称で地図に表記されているのだ。
富好新田中川並の役行者堂の北すぐ10mあまり先の右手には、やはり瓦葺だが平入で、富好新田中川並の役行者堂の倍くらいある大きな躯体の側面に白壁の見える建物が見えていた。
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建物の正面に立つと、全面に舞良戸(まいらど)が閉め立ててあって、中央にガラス格子窓が付いている。
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建物の前にはゴロンと、起き上がりこぼしのような形態の手水桶が据え付けてある。
その軒下を見上げると「秋葉神社」と、かつては金箔押されていた扁額が掛かっていた。
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ガラス格子を通して社内を見ると、つい最近祭りがあったようで、空になった三宝が机に並べられたままになっていた。
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奥には棚があって、その中央に檜皮葺(ひわだぶき)屋根を持つ、大きな神棚が設置されていた。
その内部には右に秋葉神社のお札、左のお札は文字が読めないが、秋葉神社のお札ではないようだ。
この秋葉神社も予定外で遭遇したものだが、地図に表記されていない神社だった。
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今回紹介した2つのものは川の堤防を通ったことで、偶然遭遇した堂と神社でした。