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麻生田町大橋遺跡 土偶A 151:ムロの王塚

豊橋市牟呂中村町 作神社から南々西170mあまりに位置する牟呂市場町の中道橋(なかみちばし)で牟呂用水に戻りました。

中道橋上から上流側を眺めると、延々と続いてきた牟呂用水右岸(下記写真左手)の暗渠の用水路を持った高水敷は無くなったままだが、その分、左岸の高水敷が橋の40mあまり上流で広がり、しかも、ところどころ、右岸にあった高水敷と同じように幅を倍に広げた場所が2ヶ所存在した。

上記写真左端の右岸に半分しか映り込んでいないが(しかも暗いが)、樋門の丸ハンドルを持つ溝が護岸に切り込まれていた。
同じ幅の溝の切り込みがもう一つ、上流側に並んでいるが、こちらは溝の切り込みの位置が高く、取水目的ではなく、用水を牟呂用水に落とす役割のようだ。
ということは丸ハンドルの着いた樋門は牟呂用水から取水するための樋門だと思われる。
両岸とも牟呂用水沿いに白いガードレールが設置されているが、左岸(下記写真右手)のガードレール内には、かつての鉄パイプの柵が残されていた。

下流側を見ると両岸の高水敷は落ち着き、左にカーブしている。

牟呂用水を辿ったのとは別の作神社に参拝した日、中道道のほぼ真東250m以内の住宅街の中にあるという、牟呂王塚古墳址に向かった。
路地に入っていくと、周囲の住宅との比高は2mほどで、コンクリートの垣を巡らせた方形の土壇が存在した。

コンクリートの垣の上には水色のワイヤーネット塀が巡らされ、表道路ではなく、牟呂王塚古墳址の私有道に向けて石鳥居が設置され、上記写真左端が駐車場になっていた。

『遺跡ウォーカーβ』による「牟呂大塚古墳/牟呂王塚古墳」のデータを整理すると、以下のようになっている。

遺構概要
古墳時代に築造された、横穴式石室を持つ前方後円墳で、河岸段丘に位置している。
方位N78度W、造出なし、前庭・周濠あり、墳長27.5m以上、後円径19m・高1.4m以上、前方部幅24m・長9.5m、くびれ幅11m、葺石なし。
遺物概要
集成、玉類+銅鈴1+金環1+圭頭大刀1+心葉形杏葉2+須恵器(杯+高杯)。
発掘概要
区画整理事業に伴い、1988・1990年、市教委が調査。

かつて掲示されていた『牟呂王塚古墳』案内板によれば、古代の牟呂地区は三河湾に張り出した小さな半島で、交通や柳生川河口の湊を支配た豪族の本拠であったという。
被葬者は海浜部を支配した有力な豪族と考えられている。

駐車場に愛車を入れて私有道に入り、鳥居の正面に立つと、土壇上に上がる石段の上に台輪鳥居が設置され、鳥居の両側手前には葡萄茶色に燒けた石が狛犬のように地面に直接置かれていた。

鳥居の下からは縁石に囲われた細かな砂利が敷きつめられた表参道が奥の瓦葺切妻造棟入の拝殿に向かって延びている。
社殿の左手奥には生垣が巡らされている。

石段を上がって鳥居をくぐると、すぐ目の前の拝殿には素木の板壁が巡らされ、正面にはガラス格子の戸が閉め切られていた。

軒下には素木の板に「王塚天王社」と、素晴らしい墨文字が刻まれた額が掛かっている。
社名からするとスサノオが祀られているのだろうが、この神社に関する情報は無く、牟呂王塚古墳という古墳名から天王社が祀られたのか、現在天王社が祀られているので古墳名が「牟呂王塚古墳」と名付けられたのかは不明。
串呂哲学(くしろてつがく)の研究者であり、noterでもある鈴木超世志氏によれば、「牟呂」は南朝(後醍醐天皇に属する朝廷)の関係地であることが判っており、「王塚」という名称が、そのことを示している可能性もありえる。

参拝して総素木造の殿内を見ると、拝殿内は奥の本殿とつながっており、本殿の奥の階段の付いた棚の中央には社が祀られ、紫の神前幕には十六菊花紋が白抜きされていた。

十六菊花紋と天王社の組み合わせは違和感があり、これも南朝を暗示する記号の一つではないだろうか。
社の両側前には対の雪洞(ぼんぼり)、向かって右側には不明の素木の箱、左側には幣(ぬさ)が立てられている。

左脇に回って本殿を見ると、瓦葺切妻造平入の建物で、内外とも神道に即した基本的な造りで、シンプルな建物だった。

王塚天王社の土壇上から東隣を見下ろすと、芝生を張った庭があり、その庭に面して石仏群が瓦葺切妻造の吹きっぱなしの覆屋に収められていた。

石仏のほとんどは石材と像高が揃っており、右端の2体だけが像高も後背の形状も異なっている。
おそらく、ここには寺院が存在したのだと思われる。
石仏群の覆屋は普通の民家のような建物から延びている。

王塚天王社を降りて、芝生のある庭に迂回し、北側の建物内を見ると、部屋の奥に厨子が置かれており、厨子内には小さな彩色された空海像が奉られていた。

ここは弘法堂ということになり、真言宗寺院が存在した可能性がある。

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実際には作神社や牟呂王塚古墳址を巡る前に牟呂用水の終着点まで撮影を終えていたのですが、左岸に存在する牟呂市場町の市杵嶋神社を撮影している途中で日没を迎えてしまったために、この左岸に存在する3ヶ所は5日後に改めて撮影することになったものです。

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