今朝平遺跡 縄文のビーナス 20:杜氏の杜(もり)
愛知県知多郡阿久比町(あぐいちょう)前を流れる福山川に架かった石造の太鼓橋を渡って熊野神社のコンクリートでたたかれた表参道に入りました。
表参道入口右手に「村社熊野神社」と刻まれた社号標。
社号標の数メートル先に銅の伊勢鳥居が建てられているが、素木造や石造の伊勢鳥居はよく見るが、銅造は初めてだ。
鳥居をくぐって奥に進むと、河原石を1.2mほどの高さに積んだ土壇上に上がる6段の石段が設けられており、奥に真っ直ぐ延びる表参道は、その先に設置されている瓦葺の拝殿に続いている。
石段を上がると、境内には一面に白っぽくて細かな砂利が敷きつめられていた。
瓦葺入母屋造平入の本殿は総素木の板壁の正面に格子窓を持つ板戸を閉めたてた建物だった。
拝殿前に上がって参拝した。
境内に立てられた案内板『熊野神社』には以下のようにある。
この案内板からは西隣の板嶺山(ばんれいざん)安楽寺と熊野神社が並んでいるのは偶然でないことが解る。
この地、安喰が寄進された三宝院とは京都醍醐寺の座主が居住する本坊的な存在であり、真言事相(しんごんじそう)の根本道場のことだ。
真言系密教と修験道を結びつけ、三宝院を真言事相の根本道場としたのは醍醐寺の座主理源大師だった。
それで、修験道の山法師沢田氏が安喰に派遣されたのだろう。
事相とは実際修行で真言密教を追求する方法のことだ。
案内板からの推測に過ぎないのだが、銅の伊勢鳥居は、もしかすると、角田忠行との関係で熱田神宮から下賜されたものなのかもしれない。
拝殿の脇に回って本殿を見に行くと、瓦葺総素木造の連子窓を持つ板垣に囲われた銅板葺神明造の本殿が祀られていた。
その千木は内削ぎで、伊弉冊命を表し、鰹木は5本で速玉男命と事解男命を表しているようだ。
拝殿の左手(西側)には境内社と板碑が祀られていた。
1段高くなった方形の段に、やはり白っぽい砂利が敷き詰められ、その周囲にコの字形に境内社と板碑が並んでいる。
上記写真右が拝殿で、拝殿の瑞垣に沿って大型の不明の石祠が祀られていたが、画角にうまく収まらなかったので、フレームから外した。
上記写真右端の銅板葺素木造の小型の社が津島社(建速須佐之男命)。
津島社の左隣のもっとも大きな合祀社には以下の6社が祀られている。
上記6社を祀った社の左隣、中央の大きな常夜灯の影に隠れている銅板葺屋根の小型の社が多賀大社(伊弉諾命)。
これは本殿に祀られている伊弉冊命との関係で祀られたものだろう。
上記写真左端の短い石碑が「酒造碑」。
酒造碑の右隣の石碑が「松尾皇太神碑」。
この石碑が案内板に「本殿の東丘には、酒造神の松尾大明神の石碑があり」とある松尾大明神の石碑だと思われる。
ただし、現実の石碑には「松尾皇太神」と刻まれており、新たに造り直された石碑だと思われる。
上記2基の石碑と6社を合祀した社に祀られた松尾神社はいずれも、案内板にもある、地元の杜氏が祀ったものと思われる。
松尾皇太神碑の右隣にある小さな祠が天馬駒大明神(大国主命)ではないかと思われる。
御坊神社と同じく天馬駒大明神も初めて遭遇した神社だ。
以下に、上記で紹介した社と石碑の写真を紹介する。
「皇太神」とは天照大御神に使用される神に対する最高の尊称だが、熱田大神や賀茂別雷(カモワケイカヅチ)大神にも使用されることがある。
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阿久比町 熊野神社から、東浦町の永見不動尊に向かいました。
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