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今朝平遺跡 縄文のビーナス 22:池鯉鮒(ちりふ)→知立(ちりゅう)
息子が来訪して持ち山を見るために山奥に入ったりしていたため、noteを始めて以来、初めて4日も書き込みが空いてしまいました。
昨年の8月上旬、日を改めて、今回辿っているレイラインKM(仮称)の西側の起点になっている本刈谷貝塚の東3.6kmあたりに存在する愛知県知立市(ちりゅうし)の上重原八劔社(やつるぎしゃ)に向かいました。
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この記事を書こうとして、上重原八劔社の社頭が名鉄三河線(みかわせん)の重原駅前に位置していることに初めて気がつき、驚きました。
知立市には自動車専用道路になっている国道23号線でやって来ており、23号線を降りて、地図上に号線表示の無い幹線道路で東から接近すると、当初気づいた社頭は幹線道路に面しているため、従来の駅舎に面した社頭の存在に気づいたのはその幹線道路の向かい側に愛車を駐めようとして、石畳の表参道が南に延びていることに気づいたからだった。
その表参道の脇は空き地になっていたので、愛車はその空き地に駐めた。
つまり、この幅12m近くある幹線道路は上重原八劔社の表参道を横切っていたのだ。
参道は従来の社頭に向かってさらに延びているので、そっちに向かったのだが、その社頭が駅前の駐車場に面していたのだが、駅舎が駅舎らしくなかったり(名鉄はそういう駅舎が多い)、駐車場に大型トラックが駐まっていたりして、視界を遮っていたことなどから、駅舎の存在に気がつかなかったようだ。
従来の社頭は駅舎から50m以内に位置していた。
その社頭は南南東を向いており、社地は1.2mほどの高さの谷積の石垣が巡らされ、4段の石段から始まっていた。
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石段を上がると、横切っている幹線道路までは20m以内の石畳の参道で、途中、左右対になった幟柱立てが設置されている。
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幹線道路の手前側は車が乗り越えられない高さの縁石で区切られた幅の広い歩道、2車線の車道、向こう側のガードレールを持つ歩道が横切っている。
参道の真正面向こう側のガードレールは上重原八劔社の7段の石段の立ち上がっている前部分は切られており、石段のその上には石鳥居、拝殿らしき建物が位置している。
向こう側のやはり谷積の石垣は2mほどの高さで、幹線道路に沿って左右に120mほど延びている。
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社叢は高木の無い、こちら側より豊かだ。
横断歩道の無い表参道を向こう側に渡ると石段の麓には「村社 八剱社」と刻まれた社号標。
石段の上から参道が奥に続いているが、こちら側の参道はコンクリートでたたかれた参道だ。
鳥居は石造の伊勢鳥居で、黒地の社頭額には「八剱社」と縁飾りだけが金箔押しされている。
鳥居の正面奥30mあまりに建物があるが、その手前に建物の横幅に揃えた場所に幟柱が立てられているので、やはり、建物は上重原八劔社の拝殿のようだ。
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石段を上がり、拝殿に向かうと、50cmほどの高さの布積の石垣を持つ土壇上に「八剱社」の金箔押し文字を掲げた拝殿が建ち上がっていた。
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拝殿の前面は軒下と腰板部分は板壁だが、戸は格子ガラス戸、窓は全面が積ガラス格子窓になっている。
拝殿前に上がって参拝したが、境内に掲示された岡崎御影石の板碑に刻まれた『八劔社由緒』によれば、以下のようにある。
一、祭神 日本武尊 大山祇神(※オオヤマツミ)
一、由来
ついては詳かでないが 一書によれば 第八十七代四条天皇寛喜元年(※1229)の創建とある 当初永田氏の宗家において奉祀せられ約百年を経て、神重原の氏神として広く尊崇され 奉祀せられることになったという〜以下省略〜 (※=山乃辺注)
本殿を見るために拝殿の脇に回ると、本殿覆屋は瓦葺切妻造で板壁は簓子張り(ささらごばり)、それが高さ1.2mほどの寺勾配を持つ亀甲積の石垣上に設置されていた。
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瓦葺の渡殿は広いガラス窓を持っていた。
拝殿の西脇には瓦葺切妻造平入の境内社白山社が祀られていた。
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その覆屋は前面の壁は胸までが簓子張りの板壁、その上部が白壁。
中央にはガラス格子窓が閉め立てられている。
覆屋の屋内には白壁に囲われた高い床があり、その中央に総素木造の白山社1社が祀られていた。
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白山社に関して、『八劔社由緒』には以下の案内があった。
一、境内社 白山社
当初上重原夕田の地に創建せられた 明治年間八劔社境内に鎮座せられた当社は歯痛に悩む者が境内の箸を拝受し用いれば霊剣があり 快癒の時新しい箸を奉納する習慣がある
白山社と歯痛霊験との関係は初めて聞いた。
なぜそうなったのかおもしろい例だ。
一方、拝殿の西側には重原明神社が祀られていた。
瓦葺切妻造で前面は簓子張りの板壁の中央にガラス格子戸が閉め立てられている。
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重原明神社に関して、『八劔社由緒』には以下の案内がある。
一、境内社 重原明神社
天文十六年知立神社が戸田弾正宣光の兵火にかかったため 上重原返万灯の地に遷座せられ元亀二年(※1571)まで鎮座せられたその縁由によりその跡地に知立神社御分霊を奉斎した 平成十九年上重原土地区画整理事業にかかり 八劔社境内に新社殿を造営し三月十二日に遷座し鎮座せられた
(※=山乃辺注)
愛知県知立市西町に存在する景行天皇(西暦71〜130年)のころ創建した三河国二宮知立神社の総本社の祭神は以下となっている。
・鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ:初代神武天皇の父君)
・彦火火出見尊(ヒコホホデミ:主祭神の父君、山幸彦)
・玉依比売命(タマヨリヒメ:主祭神の妻、神武天皇の母君)
・神日本磐餘彦命(カムヤマトイワレヒコ:初代天皇、神武天皇)
現在は上記の神とされているが、江戸時代には池鯉鮒明神(ちりふみょうじん)とされ、「ちりふ」が「ちりゅう(知立)」に転嫁したものだ。
池の魚名が元になっているのは、鮎が元になった名称である年魚市潟(あゆちがた:鳴海から熱田にかけての干潟)が「あいち(愛知)」に転嫁したのと相似だ。
ところで、境内社重原明神社の前には常夜灯の火袋を省略して柱だけになったような石柱が3基、奉納されていたが、これはいったい何なのだろう。
ほかで見たことのないものだ。
ほかに境内社として秋葉社と護国社が祀られていたた。
さらに、磐座として祀られたものではないが、形状に特徴のある石が置かれていた。
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池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)は日本橋から数えて39番目の宿場町ですが、宿場名の元になった知立神社総本社は三島大社、熱田神宮とともに東海道三大社として数えられるほどの神社だったといいます。