今朝平遺跡 縄文のビーナス 6:山城の居住スペース
豊田市足助町の足助城址内をたどり、下から見上げて、そのスケールに驚いた南物見台にやって来ました。
上記の絵地図にあるように、南物見台にある施設はカマド小屋、台所と食事処のある建物、倉、矢倉だった。
下記写真は手前のヨシズで屋根が葺かれ、腰の高さまでヨシズで囲われたカマド小屋、右手の切妻造で簓子張り(ささらごばり)の板壁と赤土の壁を持つ建物が台所と食事処のある建物、左奥の丸い丘の上の素木の建造物が矢倉だ。
倉は台所と食事処のある建物の左奥に位置している。
カマド小屋の中には下記写真のように石で囲った竃(かまど)が2基あるのみだ。
天井からは自在鉤(じざいかぎ)が下がっている。
下記写真は台所と食事処のある建物だが、その面積は足助城の中ではもっとも広い建物だ。
この建物でも、1度に食事ができるのは20人くらいだから、雨などで、屋外で食事ができなければ、入れ替わり立ち代り交代で食事するしかなさそうだ。
この建物から推測すると、再現されている現在の足助城にたてこもれるのは多くても数百人に過ぎないと思われ、大半の戦士は野営になるのだろうか。
矢倉のある丘に登って台所と食事処のある建物を見下ろしたのが下記写真だ。
屋根は石置屋根であることが判った。
板で葺かれた屋根を自然石で押さえてあるが、昭和期の豊田市山間部の民家の多くが石置屋根だった。
上記写真の屋根の奥に見える蛇行した通路が、城門を入ってたどってきた通路だ。
矢倉のある丘からは足助城の本丸が見えた。
矢倉のある丘から上記写真右下に、わずかに見える通路を登って本丸に向かった。
本丸に登る途中で尾張(名古屋市)と信州(長野県)飯田を結ぶ飯田街道を見下ろすことができた。
この道を見張るのが足助城の主な役割だ。
戦国時代には上記写真飯田街道の奥から三河(愛知県)に武田軍は侵入してきたのだ。
本丸に上がると、そこには長屋と高櫓(たかやぐら)、2棟の建物があった。
上記写真手前の建物が重臣が宿泊する長屋だ。
妻側の壁には大きな“おしめ”(ヘッダー写真)が下がっていた。
名称も標縄(しめなわ)に通じるが、敵や魔の侵入を防ぐための呪いだと思われる。
ここの高櫓は天守閣に通じるものなので、白壁と黒く染められた板塀が美しく、この城の主人の居住する建物であることが一目瞭然だ。
両方の建物とも、周囲には砂利を敷き詰めた溝が切ってあり、屋内が湿気に侵されないようにして、快適に過ごせるような配慮がなされている。
長屋の入り口から中を見てみると、入り口の奥が土間になっており、それ以外は板の間になっている。
窓は1ヶ所しか無いので重臣の寝室や待機所としての用途が主な役割だと思われる。
高櫓に向かい、室内に入ると、1階には2畳の畳敷のスペースがあって、片隅には戦闘で使用する最低限の刀、脇差、鎧を収める櫃(ひつ)、旗指物が置かれていた。
これらの戦闘用具と2畳のスペースが標準的な城主のスペースだというから、ほかの重臣達のスペースは1人1畳で、戦闘用具は纏めて蔵に収納していたのだろう。
1階の板塀には鉄砲が掛かっていた。
高櫓の2階に上がると、跳ね上げ窓からは足助川に沿って広がる足助町の街並みが見下ろせた。
上記写真の窓の外に見える藁葺き屋根は西物見台の屋根だ。
高櫓の2階は一部屋で、本来の物見のほかに、会議場、ゲストハウスとしても使用されたという。
そして状況によってはゲストを暗殺する仕掛けがあった。
下記写真の窓の下部分は外に張り出していて、暗殺者のための隠れスペースとなっている。
窓下の板壁を外して、ゲストの寝首を欠けるような仕掛けがあったのだ。
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足助城趾を見終えて、同じスケールの足助城を本来、存在したという飯盛山に設けるのはとても無理だと思われました。飯盛山の斜面は急で、平地は頂上の1ヶ所くらいしかなく、現在の足助城趾の半分くらいしかスペースが無いからです。現在の足助城趾は山城の学者が監修を行っており、実際に飯盛山に存在した足助城よりも、かなり立派なものを築造したのだと思われます。それだけに現在の真弓山に存在する足助城趾は見応えのある施設です。