今朝平遺跡 縄文のビーナス 46:荻野橋と法隆寺
愛知県豊田市竜岡町(たつおかちょう)沿いの県道33号線を下っていくと、すぐに豊田市桑田和町(くわだわちょう)に入り、左手50m以内に足助川(あすけがわ)に荻野橋の架かった交差点に出ました。
33号線の交差点から33号線を離れて足助川に向かうと、水色にペイントした強固な橋桁を持つ橋に出た。
上記写真は足助川の右岸側から左岸側に向かって撮影したもの。
この橋のコンクリート造の親柱にはめ込まれた大きな真鍮製のネームプレートには「荻野橋」と浮き彫り鋳造されていた。
この橋にはいくつか不可解な要素があった。
まず、歩道を示す分離線は上流側(上記写真左側)のみで白色だったが、橋の上のラインはほとんど消えていた。
一方で、下流側には目につくエメラルドグリーンの線が引かれていたが、橋の欄干の基礎ギリギリに沿って引いてあり、歩くスペースを取るための線ではなかった。
では何のために引いてある線なのか。
しかも、この線とは並行していない、コンクリートでたたいたエッジに鉄板を張って地面側と橋側の合わせ目にしてある鉄のラインが地面と橋の境目だけではなく、続けて橋を斜めに向こう岸にまで延びているのだ。
もう一つ不思議なのは、橋の先から道路が向こう側に延びているのではなく、橋のすぐ先に住宅が建っているように見えることだ。
これらの謎は荻野橋を航空写真で見下ろしたら、すぐに解けた。
なんと!
荻野橋は左岸に向かって広がっている異例の橋だったのだ。
エッジに鉄板を張った合わせ目が斜めに延びているように見えたのはそのための錯覚で、合わせ目は上流側(上記写真下側)の欄干とちゃんと等幅で並行に延びていたのだ。
●荻野橋と法隆寺脇参道の共通点
荻野橋がなぜ、こんな不思議な橋になったのか推測すると、当初は上流側の等幅の橋が渡してあったのが、おそらく右岸側からやって来た車が上記写真左下の住宅に突っ込みそうになる車が続出したためだろう。
実際、荻野橋から住宅までは6mしかなく、夜間に初めて右岸から渡って来た車は渡り終わって右にしか行けない道路だと気付いた時には6m以上移動してしまっているだろう。
時速40kmの法定速度でも6mなら0.00095秒で移動してしまう。
しかもまずいことに、歩道が橋と家の間を右手に向かって横切っており、道路が右にしか曲がれないことを知らない運転手は橋を渡り終わった歩行者が右に移動していくことは予想できないから、歩行者は家よりもはるかに危険なのだ。
むしろ、歩行者が車の前に出てくるから、ブレーキをかける気っかけになり、家との衝突は避けられるかもしれない。
下流側の欄干に沿ったエメラルドグリーンの線は心理的に右側に曲がらせるための線だったのだ。
だから右側にだけエメラルドグリーンの線を入れたのだろう。
ただ、この処理は初めて逆方向の左岸下流側から橋に侵入して来た運転手には危険だ。
橋の追加された合わせ目がセンターラインにしか見えないから、一瞬、運転手は混乱するだろう。
この事態に適応できなくて急ブレーキと間違えてアクセルを踏んでしまう高齢運転手は必ずいると思われる。
しかし、右岸側の道幅では狭くて中央分離帯の線を引くこともできない。
解決策は橋の合わせ目が目立たないように橋を全面的に同色で塗りつぶしかないと思われる。
地元民しかほとんど使用しない橋に関して長くなってしまったのは、同じ経験を世界最古の木造建築のある寺院の参道で体験したことがあるからだ。
それは奈良県の聖徳宗総本山 法隆寺でのことだった。
法隆寺の正面入り口になっている南大門から入場して北正面に位置する中門に向かい、その回廊内にある金堂や回廊の周囲を見終えると、誰でも回廊の中門と南大門の間を東西に延びている脇参道を東に向かいます。
法隆寺は東の端に東院が存在し、その中央に聖徳太子信仰の中心となる夢殿が存在するからだ。
夢殿には聖徳太子の等身像と伝えられる救世観音像(ぐぜかんのんぞう)が奉られている。
中門と南大門の間から真っ直ぐ東に向かうと200mあまりで東大門に至る。
東大門をくぐると、はるか遠景正面に東院四脚門が見え、その四脚門の屋根越しに夢殿の甍の上の飾られた宝珠が覗いている。
東大門から東院四脚門までは170mあまり。
東大門と東院四脚門の間の参道は中央に幅5mあまりの石畳の参道が通してあるが、石畳右手(上記航空写真下側)の壁と石畳左手(上側)の水路までの幅は平均10mあまりで、石畳の両側の地面は土になっている。
上記航空写真内の壁と水路に入れた赤線を見ると判るように、この参道だけ夢殿に向かって参道が狭くなるように意図的にパースがつけられている。
このパースは微量で、参道の中程にやって来るまで、参道にパースがつけられていることに気づかず、夢殿が遠くに存在するものと、錯覚を利用して騙されていたのだ。
参道にパースが付いていることに気付いた観光客はどれほどの割合で存在するのだろうか。
建築関係者は100%気づくと思われるが、法隆寺を紹介した文で、このパースに関して触れている文章にお目にかかったことが無いのだ。
この場所は聖徳太子の斑鳩(いかるが)の宮(住居)が存在した場所だが、現在の法隆寺は高僧行信(ぎょうしん)が建立したものなので、聖徳太子は参道にパースが付いていることを知らない。
聖徳太子は建築の神様として奉られていることがあるが、その当人を奉るこの場所を設計した棟梁は足跡を残すために、凡庸なことをするはずがないと思われるのだが、この目眩しはその1つだろうと思われる。
そして、なぜこの参道にパースが付けられていることに気付いたかというと、この参道は中央あたりで、荻野橋のように、北側に水路で半分ほど分割されている別の通路が並行してくっつけられ、この追加された通路はパースが強いことから、誰でもこの通路にパースが付いていることに気づくような通路だったのだ。
そしてこの通路と参道は最後の部分では荻野橋のように1体となり、南大門前の参道幅と東院四脚門前の道幅はほぼ同寸法に仕上げてあるのだ。
この参道を設計した棟梁は、この仕掛けが誰でも気づけるようにしているとしか思えない。
右岸から見た荻野橋の状況は東院四脚門前から東大門を見たときの状況と相似で、四脚門前から東大門を見れば、実際より東大門が近くにあるように感じる。
さて、荻野橋上から足助川上流を見下ろすと、右岸(下記写真左手)はコンクリートで護岸され、左岸側は土砂が堆積して雑草が生い茂ってしまっているので、堤防がどうなっているのか見当がつかない状況になっている。
橋幅から見ると、この場所の川幅は20mあまりあり、右岸のコンクリート壁の上も高水敷内で、上記写真内の左岸もすべて高水敷内のようだ。
水面幅は広い場所で5mほどだろうか。
水は透明で橋のすぐ上流部分は川床に砂が多いが、少し上流を見ると、河原石が川床を埋めている。
車がほとんど通らないので、歩道の無い下流側から足助川を見下ろすことができた。
右岸側(下記写真右側)のコンクリート壁は継ぎ足され、高い部分は川床から6mはありそうだ。
左岸側は地面が高くなっており、護岸がどうなっているのか雑草で覆われていて、まったく見えない。
上流側は水面が静かなのに、下流側は傾斜があるようで、流れは白い飛沫を引いている。
荻野橋から33号線に戻り、ヘアピンカーブを描いて流れる足助川に沿って510mあまり下ると、荻野不動尊の脇に出た。
この部分では刈谷市天王町の本刈谷貝塚(もとかりやかいづか)と足助町の今朝平遺跡(けさだいらいせき)を結ぶレイラインが足助川をかすめているので、荻野不動尊は以下のレイライン記事ですでに紹介している。
荻野不動尊前から33号線を250mあまり下ると、左手に社号標と案内書を兼ねた板書が建てられていた。
社号として「石動神社」とあるが、「いするぎじんじゃ」と読む。
初めて遭遇した神社だ。
「祭神」として「大己貴命」(オオナムチ)とある。
社号標&案内書の右側には基壇に乗った石標と上面が平らな巨石が置かれており、その間から下に下っていく獣道のような通路があった。
上記写真左端の石標には「伊勢両宮〓〓神社遥拝地」とあるが「〓〓」の部分が撮影して来た写真では読み取れない。
「〓〓」は「石動」かと思われたが、どうも異なっているので、伊勢の内宮と外宮と伊勢のもう1社を指しているようだ。
愛車を巨石の脇に止めて、33号線から獣道を下っていくと、社号標と対になった狛犬のある石動神社の社頭らしき広場に降りられた。
社頭は足助川でいうと下流川を向いており、境内は雑草でほぼ、覆われている。
社頭の向いている方向には参道らしき細道が真っ直ぐ延びており、その先は両側が畑地になっている。
一方、社内には巨木の奥に切妻造の建物があり、軒下の部分は白壁で、その下部の壁は全面が板張りの建物だ。
建物の右手が開けているので、そちらに向かった。
その建物は南東を向いた民家のような平入の拝殿だった。
それは瓦葺の建物で、前面は4間幅のガラス戸が建てられ、向かって右側に4枚のガラス戸が収納できる袋が付いていた。
(この項続く)
◼️◼️◼️◼️
石動神社に関しては総本社が明らかでないのですが、Wikipediaには以下のようにあります。
「富山県と石川県の境にある石動山をかつての本山とし、祭神を石動彦(石動権現)として祀った、山岳信仰である石動信仰にまつわる、北陸地方を中心に存在する神社である。」
調べてみると、全国に49社が存在する神社で、もっとも多いのは石動山のある富山県と石川県ではなく、新潟県の36社となっています。愛知県には桑田和町の石動神社、1社のみです。『石動山古縁起』には崇神天皇6年に方道仙人が開山し、養老元年(717年)に智徳上人が登山して天平勝宝8年(756年)に大礼殿(講堂)を造営したという。一方、泰澄(たいちょう)による開創の伝承が古くからあるようです。